潜在無限 (2015)


 表現とは何か。表現するとはどういうことかという問いかけが、六〇年代から七〇年代初期の頃、寝ても醒めても、頭のなかをかけめぐっていた。それは〈作品をつくる〉という前提であったが、まずは、どういうことが表現として成立し得るのか考えずにおれなかった。思いついた考えをカタチにするとか、あの材料をこのように使用すれば表現であるとか、そのようなことは、ずっと先の方にあった。まず当面は、〈表現すること〉に自ら納得しなければならなかった。作品を表わす必要性から、表現することが自分にとって、役割としてどんな内容を持ち、人の意識のどのような部分にかかわっているものなのか、疑問だらけのなかにいたのである。わたしのなかで、〈表現すること〉は、なにも造形することだけに結びつかないところがあって、そのあたりを追求していくと、表現意識にこだわる人という存在とはなんなのかという問いただしも出てきて、際限のない根問いをする状況でもあった。そのような意識の揺れ動く様相でありながら、〈作品〉というモノを無理やりにでもつくらなければならない状態も片方にはあった。にもかかわらず、〈表現する〉とはどういうことかも、納得のいく視野が、かすんで視えにくいというのがほんとうのところだった。だからわたしは、〈つくる〉とき意を決するというほどの強さが必要だった。そんな場合、表現というのは、自分の内面の意識性や表示性や創造性を一時的に解体することであり、〈つくること、つくらないこと〉を同等にする次元に立つことなのではないかと考えた。わたしを含めて、人にはそれぞれものや事象への認識や概念があって、自分が安心安全にいられる空間や場をつくりあげている。表現として、作品を〈つくる〉ことは、まずそのような普遍的な安定した状況に身を置きながら、表現する本体として、その普遍性や安定性の世界から身をのりだして、予想のつかない世界に身を投じる行為なのではないかと思われた。計算できない、あるいは予測のつかない状況や場に自らの身体や精神、意識を移し、それでもなお表現にこだわれば、具体的にその〈表現すること〉の内容を提示しなければならないのである。


 しかし、そこまでいくには、まだやっておかなければならないことがあった。〈表現することは、何か〉とは、簡単に答のでる内容ではないのを承知で、作品を〈つくる〉必要も時には生じてくるということも、現実としてあった。そのせっぱつまりのなかで、それまでの作品制作の基本的な認識を排除しようと決めたのである。六〇年代後半にいたるまで、造形表現においてイメージは重要な要素であった。そしてイメージするものや世界を表現することが当たり前のこととして語られ、行なわれていた。わたしは、まずこの〈イメージする〉ことが、ダイレクトに表現することをさまたげている元凶であると考えた。〈イメージ〉は、現実の実質的にあるものを、変様させ、実体性を排除し、虚構性を軸として世界を目指すたぐいの事柄であると、わたしは解釈したのである。つまり造形的表現は、現実にあるさまざまな実体を認知していながら、それを頭だけでつまり思考の枠内で、自分にとっていいようにつくり変えて、いうなれば形骸化した像として出すことなのだと納得したのである。そこには、現実感も具体的なもののリアリティもない。わたしは、そのようなものを作品として提示できなかった。わたしは、表現となると、他の実作品がそのものの在り方のちがいを見、認識していながら、それらを思考し、概念化するというひとつのカマに入れてかき回し、個々のリアリティや細部の個性をはぎとり、ぶちこわし、わけのわからない要素や材料にしなくてはすまないのが不思議でならなかった。わたしは、世界は個々のものがそのちがいをきわだたせながら、レンメンと連続してあるものと考えていた。だから、個的でリアルなものが、そうでなくなる思考優先の概念化は、とうてい許容できるものではなかった。そんなわけで、わたしは徹底して〈イメージ〉や〈イメージする〉ことを排除した。


 その次に、わたしは、〈認識概念〉というものを再考した。人は、集団で生きるために、約束事が必要であった。言語性においても行為性においても、さらに事柄の意味性においても、である。認識概念がそれぞれ共通したものとしてあるので、人は必要な用事をすませ、お互いの要求や希望を伝えあい、物を共有したり、とりかえたりすることができる。これらは、人の通常の生活環境において、ことさらとりあげて問題にされてはいない。しかるに、作品を〈つくる〉わたしにとっては、そのような意識を当たり前のこととして見すごすことはできなかった。わたしは、作品を表わすにあたって、まずこのものやことへの共通した認識概念を変えなければならなかった。異質なものをそこに見ること、差異を認識すること。ものを見て、他人と同じような見方しかできないというのでは、あらたな視野をモノ(作品)の上に見ることはできない。つまり、誰でもができるつまらないモノになってしまうということである。それをさけるために、わたしは徹底して元々ある認識概念を変える操作に時間をついやした。意味や名辞を自分の意識に合わせて変えることをしなければ、わたしが目指す表現はできないことを察知していた。人がこんなもので作品はできないよといっても、わたしは自分の内面で構築した流れによって、ものに別のあらたな認識概念を付し、そこに通常では見ないであろうもののリアリティや個的な意味を見いだし、それらをモノ(作品)を表わす基(もと)としたのである。その意味でもモノを〈つくる〉作業は、はじめにわたしが必要と思われるものの実体性を想定するところからいつもはじめられたのである。あらたな名を冠し、意味を付し、それまでとはちがった存在観を与えるというように。だから、モノの完成までたいへん時間がかかったのである。わたしにとって、七〇年代前半は、世界をつくりなおして《依存するものの状態を組み変えて》いくことを意識的におこなっている状況だった。制作に関連していえば、使用しようとするものがある場合、まずその従来の認識概念を取りはずし、それを無名なるものの状態とし、それが現在において、まさに現実的なリアリティを得ることに力をついやした。それをしたうえで、あらたにわたしが見たいリアリティをどのように表現物として表わすことができるのか考え抜くことが、わたしのモノを表わす道すじの流れであった。そんな状況において、在るものがいったいどのようにして、現にその場に在り得るのか、そのプロセスの在り方も重要なもののファクターとして認識していた。たとえばひとつの石コロが、長い間川底にあって水流によってみがかれたものか、土中にあって少しずつ質を変化させたものなのかを知ることは、石の時間と空間、そして事物の変化変転を自ら体験することにもつながるのであった。それは、石の〈現在〉を保ちつづけるさまざまな事実と様態を知ることでもあった。その状況で、わたしのなかの在り様をものと同調させ、体内化させることが大切であった。そうすることによって、それまで見えなかったものの「内側性」を意識にとり込めたのである。ものの「内側」を知ることで、それまで知ることのなかったものの領域(階層性・異質性・連結性)を察知できるようになるのであった。その内面領域は、日常的な視野では、隠れている。だからといって、虚構なる実体性というのではない。わたしは、それら隠れたものの領域を極力引き出し、それまで見えなかったもののリアリティを得ようとした。それを得られたとき、そこに自分なりのあらたなことばや認識を添わせ、自らの表現世界の実体としてあつかえる状態になり得ると確信していたのである、このような、ものそのものを意識のなかに内在化する方法は、今でもそうだが、六〇年代終わりから七〇年代にかけて、多くの時間をかけておこなったことだった。


 当時は、まだものの多様性とか多義性などということは、認識はあったにしろ、あまりやかましくいわれていなかった。しかしわたしは、それらの意味や認識を存在にかかわることや、空間や場の特性や個性をあらわにしていくものとして、重視されるにちがいないと考えていた。〈もの〉と〈場〉は、認識上ちがうものとしてあつかわれていたが、わたしにとって、〈内側性〉という視野からすれば同一的なものであった。だからひとつの〈もの〉の認識において、全体性ということをつねに意識の背後にもっていた。


 わたしは自然状況のなかで、さまざまな行為をしたが、それはなにも自然のなかから、特別に個なるものをとり出そうとするものでなく、人の行為によるものさえ、自然の輪の一端としてあればこそリアルに存在し得るものだとしていたのである。人もその行為も表現物も、自然のなかで、全一なるものとしてあった。

初出:『菅 木志雄 置かれた潜在性』HeHe、2015年