「有」間「無」間 (2005)
 

 作品をつくろうとするとき、好ましい好ましくないにかかわらず、「秩序」ということが浮かんでくる。ひとつの画面をつくろうとする場合や事物を組み合わせ、立体を構築しようとするとき、素材があり、表わし方やつくり方を知っているからといって、すぐに画面が色彩でうまったり、気の利いた構造物ができるのではない。多くはその画面や、事物の前で、沈思黙考し、立ち往生の態になるのである。作品をつくるという意識やそれなりの理念やコンセプトもありながらである。
 さしあたって、作品を表わそうとする時点では、素材の様相を見、それからそれらを位置づけるための、なにもない空間を見たり、感じたりする。そうしたときに、素材そのものにも空間の内側にも、それなりの「秩序」を読みとることができる。それはおそらく、作品をつくるために必要とされ、集められる以前の他所における事物や空間の「秩序」であるように思われる。それぞれのものや空間は、つくる人間がそれをピックアップする以前に、所属する事物界や空間界があり、そこで自然法則や人々によって「秩序」づけられている。そこでの「秩序」とは、序列のことであり、役割性の有無であったり、価値観や欲求度、質や量などによって、区分けされた状況である。だから、そういう場から集められたものや空間体には、ある種の色合いやクセがついているといっていいであろう。そういう存在物に対したとき、人は「秩序」のニオイを感じずにいられない。
 つくる者は、まずこの従来持っている二オイをどうにかしなければならない。できるかぎりニオイを排除し、前々からの価値観や機能性をとりのぞいていく。その作業を、つくる者は、まずはじめにする必要がある。作品は、従来の「秩序」の外側に位置させなければならないものだからである。そうでなければ、つくる者の思念を最大限に作品に入れられないということがある。思念とは、つくる者がそれ自身で持ち得る「秩序」なのである。
 これから考えれば、作品をつくることは、なんらかの「秩序化」ということになる。とすると、作品は、旧来の「秩序」を破棄し、あらたな「秩序化」を目指したモノということになるだろう。そのためにどうすればよいか、素材や空間を前にして、身動きできない状態が現出するのである。
 そのような状態のとき、事物や空間はどうなっているかというと、つくる者の頭の中では、なにもない状態として空無化され、ただそこにあるのみである。それはある意味で混沌の状態と同レベルのあり方のように思われる。
 空無化しているが、充分な存在性だけはそこにある。その前で、つくる者は、どのような「秩序化」によって、存在性を入れかえるか心をくだく。しかし、この入れかえ作業は、簡単なようで、むずかしい。つくる者の中に、生まれて育った場所や、周囲にいる人々によってもたらされる認識概念や価値観、位置づけというものがあり、生活している間に人の中にそれらが固定し、何かを考えるときにそれらが基準になる。そのできあがっている「秩序立て」を壊すのは、容易ではない。作品をつくるときに、どうしてもそのようなものに、つくる本人でさえ引きずられやすい。もしそうなれば、いい作品はあまり期待できない。ただ見る人が、旧来の「秩序」のみを頼りにしている者であれば、充分に用をなすことはあるだろう。でも、あらたな「秩序」を思考する人には、つまらないものに見えかねない。
 つくる者においても、美術の中の調和とかハーモニーとかバランスやリズムなど、ありきたりの仕組みを基準にする者が多いので、見る側の問題だけですむというのではない。
 重要な点は、どちらにとっても、「秩序」が壊れることを恐れないことと同時に、存在の新しい「秩序」への志向をとめないことである。
 わたしは、通常のものの在り方の「秩序」を混乱させたり、はずすことを意識的に常々考えている。それは、よくわかることばの文脈のなかに、わけのわからない、すぐに意味がとおらない記号やことばをはさむに等しい。たいがい見る者は、作品の前で絶句する。何秒か何分か、じっとしている時間の長さは、「秩序」からあらたな「秩序」への旅と考えるのである。到着する人間もいれば、挫折する人間もいる。
 わたしは、たいがいの場合、作品に「秩序」を変えるように要素や構築性を仕組んでいる。あるときは、まったく異なる「秩序」を入れ、ものの見方や思考を刺激し、そこに「別の世界」があるということを知らしめたいと考えるのである。そういう場合には、単なる素材や空間が、極端な異形をとるわけではない。一見従来と変わらないように見えながら、たとえれば、手持ちのカギがカギ穴に合わない状況にする。また見るからに、どうしようもなく「秩序」が乱れている状態も現わす。
 いずれにしても、見る者は、そこからモノのなんたるかを知ったり、悟ったりして、既知の空間とはちがう空間性を認知し、未知の「秩序」を知り、体験していければいいのである。それが日常化したとき、新しい「秩序」は定着するかもしれない。それはとりもなおさず、一人一人のその場に対応するあらたな行為性を誘発する元になるだろう。

初出:『菅木志雄作品は禅に通じる』板室温泉 大黒屋 菅木志雄倉庫美術館、2008年