見えない世界の見えない言語 (1969)
 

 作品をつくる場合、テーマが先か絵画的イメージが先かということがしばしば問題になる。第一三回のシェル美術賞の中沢洋一の作品を見たときに、私が感じたのはそのことであった。その解説的な題名は、それ自体が絵に付属したテーマの領域を超えてあるような気がした。つまり、これは明らかに絵と題名がなんの連絡もなしに並列されているということである。人は絵にはさほどひかれはしないだろうが、その散文的な題名ゆえに、その象徴する意味より多くを考えさせられるのではないか。従来の絵では題名はある事象のとっつきにすぎなかった。人は作品を見て、はて、これはなんなのかと題名をもくりかえし見るというほうが多かった。この場合、確認するという二義的な意味もあったのである。それは題名が付属品にすぎず、観念の表象そのものではなかったからである。
 中沢の絵の題名は、明らかに絵とは無関係にある。絵のなかの何ものをも説明していない。ただ、作者の概念の志向だけを表明しているだけだ。絵が、なぜタブローでなされ、墨を用いなければならないかも、おおよそ問題でなく、作者の個人的な見解を、人それぞれが自分のなかで好きかってに構成し、共鳴してさえいればいいのである。ここでは文字だけの媒体の作品と異なって、言語空間なり言語構造に対して一つも不安も懐疑もいだいていないのだ。中沢の作品は文学青年風のセンチメンタリズムにとどまっている。ただ、題名そのものが、現代美術のゆきどまりの時点を暗に言いあてているのが妙である。
 よく直接に作品を見ずに、話しを聞いただけで、それはおもしろいとか、いいとかという人がいる。その場合、話すことばそのものがおもしろいというのではなく、大半は、ことばに必然的につきまとう裏の意味を理解してのことである。しかし、話しことばは音楽と同じく、音と音調と成音テクニックとイメージの表現形式からなる抽象的な事象であり、音そのものを、意味のあることばに還元することとは別のことと知っていなければならない。話しことばは、話す時点ではつねに推定された事象の伝達にほかならない。時間や場所を異にして、ことばによって語られた事物なり事象が実際にあったとしても、聞く人はことばによって、構築された架空のもの、似てはいるが実在しないものを想い浮かべるしかないのである。話しことばは外形を説明する平面的な羅列でしかなく、もしも、話すことばだけによって、その通りのものを創ったとすれば、それは奥行のない写真にとった物のようであるだろう。
 われわれが平常、平気で会話によって意志を伝達できるのは、音声による約束事なのである。さらに言語は、時間や空間を超越したところでなされる架空の世界をひっぱり出す一つの方法なのだ。そして、その架空の世界は、音声がとだえればたちまち消えてしまう蜃気楼なのであった。われわれは、そのなかの数々の想定された事柄をおもしろがっているにすぎない、話す言語によってかたちづくられたイメージの産物は、あくまで仮想であり、類推であり、目には決して知覚できない。
 またある人は、文字を書くことによって、何かを知らせようとする。話す言語と書く言語とは根本的に異なる、というのは書かれたものは、書いているその時点ではもはや線的な記号そのものになって、意味を含んだ言語としてのイメージや、内容や、類推される事柄を放棄してしまうのだ。言語は語と語の連結を失って、存在するだけである。言語を人は、線によって視覚化されたしるしとしてのみ認識するだけであり、語と語の連結されたものが何かの意味を表明する単語として認識されるのは、また別の次元のことなのである。語それぞれが同じ言語中枢から発せられて、運動中枢を通って手の感覚的な運動によって、書かれたという類似性により、〈ことば〉を構成する共通性を見いだすことができる。語がならべて書かれたとき、人は意味、内容を理解するよりははるかに、言語そのものの書かれた事実と、そのいかにあるかというあり方とに強く惹かれるのである。
 話す言語が架空の事象を説明する架空の言語だとすれば、書かれた言語は書かれたという現在の事実と、書かれた実体である語とによって、本来架空である事象を現実のあるものに転化する手段であった。言語が書かれることによって、人はそれらを対象物としてとらえ、日常のなかの物という概念にあてはめて考え始めるのである。
 対話するとき、人はつねに人と対面し、ことばを認識する以前に、どうしようもなく人そのものを認識するほうが強かった。しかし、書かれたことばは語というより、物として認識され人を離れ、逆に人を類推させるという方向をとる。
 人は書かれた言語によって物として直面することになんの異和感をもたずに、物にさらに別の意識的な素材としての役割をもたせることができるようになった。その結果、言語は人が年を加えて創り出す造型と並列の状態でとらえられるようになり、言語の機能性というものを失っていった。
 言語そのものが独立したときに、言語はそれ自身の構造や独特の空間的なイリュージョンをそなえるようになる。それは、言語がなんの実質的な裏づけをもつことができないということであり、事実としての空間と仮想の空間とを共有するようになるということである。
 一つの例をあげるならば、ジョセブ・コススの《言葉》という作品である。これは黒地に白でナッシングという英文字と、それの解説らしきものが辞書風に印刷されてある。われわれは約束上、その英文字をナッシングと読み、その内容を同時に連結して想い浮かべるであろう。しかし、われわれはナッシングということばの隠れた構造を認識しながら、はたしてナッシングという文字の象徴する状態がいかなる状態なのか、確実に想起することはできない。なぜなら、ナッシングということばはナッシングという文字の現にある状態によって、抽象される仮想の空間だからである。われわれは、文字のある状態により惹かれるのであって、なにもない状態を表現する文字として認識するわけではない。「ナッシング」はそのことばの意味とはまったく逆に、印刷し、あるいは書くという行為により、現にあるということの不変な状態を創り出したのである。
 現代の造型が作者から離れ、人あるいは作者と相対的に、それ自体同等の価値として存在する方向をたどっていくのに反して、言語を用いた作品は仮想の空間しか立証できないという理由で、作者あるいは人が仮想の空間と同価値となり、人という実体が必然的に虚体となる、もっとも明快な方法なのである。そして、その後には文字の印象さえも消えて、目に見えぬ世界だけがとり残されてある。
 あらゆるものが造型の要素になり、あらゆる観念がたちまちにして何かを表現する裏づけになる現在、われわれは創るよりも、思考するほうに、思考するより、体験するほうに、体験するより、自分を見失って、何かを認識するという事実さえも抹殺せねばならぬということに気がつかなければならない。われわれは何かを表現することが一つの創造だと思いがちだけれども、それは逆に何かを失っていることなのである。観念の流動する場所はつねに一定の広さであって、それゆえに人は何かをえたなら、それだけのものを失うという行為をくりかえさずにはいられないのだ。
 われわれのまわりにあるものは、何らかの名前によって抽象的に認識され、それによって、その物の特性や構造さえも明らかに認識しているごとくに思っている。たとえば、自然石や樹は、言語学的にあるいは生物学的に証明できるかもしれないが、石や樹の時間的な空間や構造性や特性について、何ひとつ人の手を加えることはできない。また、石や樹がそれぞれに区別されうるのは感覚でしか知覚できない部分があるからである。そういう知覚できない部分を具体的に象徴しているのが名前ではあるまいか。それによって逆に、人は言語構造や意味を認知できるのではなかろうか。われわれが欲しているのはつねに見えない部分であり、言語はその見えない空間の形骸でもある。


初出: 『SD』60号、1969年