モノは、総体 (1988)
 

 モノは空間の総体である──という認識が、現在わたしの実作する場合に、第一に考える一事です。空間の総体といういい方をしているけれど、より重きをおいているのは〈総体〉という内容のほうです。モノそのものを空間と同義的にとらえてもおかしくないという思いが一方にあるので、〈総体〉の中味が、モノのどういう状態を指し示すべきなのか、実作のプロセスで検証しようとせずにおれないのです。
 実際にモノをつくる段になって、周りを見わたすとさまざまの事物がありますが、そのなかから実作に適応した素材となるのは、ごくわずかです。実作者の認識、観念にマッチしないからといって、周りにある存在物をここには不用なものと規定することなどできません。不用に感じるとすれば、実作者だけであって、これはつくる側がそこにある現実の状況に則していないのにすぎない。周りにある事物は、いわば周囲の世界(別にいえば、ひとの思考の世界を内部とすると、外部の世界になる)をカタチづくっており、それは有用、無用に関係なく、また質量、カタチ、構造、占める領域のちがいを如実に示しながら、現前してそこにあるといえます。
 周囲の世界は、事物の連なりであり、かつ連なりの〈総体〉が世界の認識そのものです。実作者は、この周囲の世界から、つくるために素材をさがし、取り出してくるのですが、それは〈総体〉そのものである世界から、ひとつの要素を抜き取ってくることであり、抜き取られた素材は、その瞬間に、〈総体〉を支えるすべての物性、存在性をはぎとられる、つまり背景を失ない、リアリティを失なってしまうでしょう。
 実作者の思考の世界(内部の世界)は、このアカハダカのモノに新しく背景を与え、リアリティを注入する役割をもっている、もっているというより、そうしないではいられないのです。内部の世界もまた思考の〈総体〉としての場なのですから。

初出:『「ベルリンー東京 現代美術交流展」図録』1988年、朝日新聞社