無名性のかなたの無名──なぜ〈もの〉なのか (1972)
 

 いまの世の中ではほとんどの人が氏名(呼名)を持ち、またほとんどの事物はその固有の記号を持っている。持っているというより〈人間〉によってつけられているといった方がいいのであるが、その〈人間〉の氏名である記号の役目のひとつは同種の、つまり〈人間〉の集団から一個人を区別したり、特別の位置を与えたりする目的を持っている。しかし、氏名がその氏名を持っているゆえに特定の人格を明らかにし、かくされた肌色とか、生活観念とかまで暗示する記号では、もちろんない。というのは氏名は記号であるという概念に与えられている記号だからである。簡単に言えば、それは約束事にすぎないからである。もしもその氏名がかなり公的に知れわたり、週刊誌やテレビや映画などでその顔とともに、世間の人びとが印象づけられるとすれば、ある意味では人間の性格や生活や思考や、ひとりの人間の、その文化や政治とのかかわり合いの様子を知ることができるかもしれない。赤の他人の氏名が他の誰かを抑制する力をもつに至る状態は、氏名が日常生きている個人を離れて、まさに仮構を支えている記号としてのみ用いられる時であり、その時それは情報機構に組み入れられ、暗黙の内に〈人間〉のためだけにある意味として処理される運命をになっている。大方の氏名は日常で他人を抑制したりしないが、そのかわり逆にひとりひとりを遠い他人の距離に置く力をもっている。いいかえれば、〈人間〉は日常の生活の場では互いに忘れられた存在でいることの方がはるかに長く、かつ自然なのである。事物の場合は人間と人間の関係とは異なり、連鎖的に生ずる、いわゆる関係によっては、それぞれの事物を支えている本質の比重を抑制するものではない。
 まず〈人間〉ということばの〈位置〉とそのことばによって引き出されてくる形象を考えてもらいたい。われわれの頭のなかにすでに〈人間〉ということばを特別に認識しなくても、〈人間〉であるところの姿態とか音声とか一般的な性質特徴とか居住空間とか歴史とか嗜好性とか、あらゆるデータを知っている、つまり概念化された〈人間〉を知っているのである。しかしながら〈人間〉ということばは、自分が〈人間〉と信じている生物の総体に対するシンボリックな記号であるにすぎない。もしもここに〈人間〉のテリトリーからはみでた〈人間〉がいて、〈人間〉という自覚もなく、ことばもわすれてしまったとしても、われわれは彼を、やはり〈人間〉として扱うだろう。なぜなら、ひとりの〈人間〉の対峙するのは無名の実体そのものである、ひとりの〈人間〉に相対するのではないからである。彼の対峙するのは概念化された巨大な〈人間たち〉でしかない。
 〈人間〉ということばに個という概念はない。〈人間〉と呼ばれる限りにおいて、われわれは他の生物と同等の位置を確保しているといっていい。〈人間〉ということばを取り去れば無名なものの領域を得られるという点において。
 よほどのことがない限り〈人間〉ということばが除去されたり消滅しないというのに、〈人間〉ひとりひとりの呼名である〈氏名〉は、ある意味では簡単に変更したり、抹消したりすることができる。記号することの本質的な意味においては〈人間〉も〈氏名〉も同じであるにもかかわらず、前者は〈人間〉の実体が現に存在しなくてもことばの記号としての意味だけで成り立っていることがわかるであろうし、後者の〈氏名〉は確固たる実体であるものなくしては、存在理由が無くなってしまうのであった。〈人間〉ということばは概念を支配するシンボル的な記号であるのに反し、〈氏名〉は実体を支配する記号ということができる。そしてさらに〈氏名〉は個体群を対象にした公的なことばではなく、非常に狭い領域での非常に個人的なことばなのである。個人と個人がある関係を共有するうえで大事な記号であるけれど、時間がずれていたり、生活する地域が異なったりすればまったく無関係であり、無理して知らなくてもよい記号でもある。
 それぞれの位置の図式を想定すると概念上の〈人間〉ということばと、個人的な〈氏名〉である「太郎」、「次郎」などということばが、位置として両極にある。ならば、命ある生物としてのものはどこに位置するか。たぶんそれは〈人間〉と〈氏名〉という記号の中間に、それぞれから同じ距離を保ってあると言わねばならない。
 しかし少なくとも今までの(概念性をとり去った生物というものの位置について考えるまでは)認識の過程では、生物としてのものは〈人間〉と〈氏名〉が並んでいるそのまた外側に、ちょうど三列にならんだ恰好にあったと思われる。この場合、生物の実体と〈氏名〉は、〈人間〉という太陽の強力な引力圏からのがれられない惑星と同じで、どうあがこうと〈人間圏〉に集約されてしまう形になるより手がなかった。ことばにならない所作、ものの本質でも〈人間圏〉つまり概念世界から足を洗えなかった怖さがここにあるのである。
 それならば〈人間〉と〈氏名〉の記号の間にものを位置させれば、一定方向に志向づけられた概念性をさけることができるかどうか、である。少なくとも一つの引力をふせげるだろう。ふせげるとは、無関心、無意識になり、記号によって関係を強要される種々の様式化された思考とか所作とか見方などを防げるという意味であると同時に、生物としてのものあるいは反応体としてのものの本質的な存在理由と位置を、個々に自覚される意味合いも含まれている。一つの記号の引力、たとえば〈氏名〉を抹消するのは簡単である。というのは〈氏名〉はその相対に〈人間〉ということばがあるから、われわれの生のトータルなリアリティの比重を〈人間〉の側に引きよせてしまえば、〈氏名〉は自然消滅してしまうだろう。〈氏名〉は〈人間〉ということばの概念の上につけられた〈氏名〉でもあるからだ。これと逆に〈人間〉という概念をなしくずしにするのは少々難しいように思う。〈人間〉という概念に相対する、つまり同じぐらいの力を有している概念性の記号が確固としてないからである。多少考えられるのは〈生物〉という概念であるが、それほどシンボリックな記号性があるとは思えない。しかし、時間と空間をはるかに超えて持続する有意性を包含している点においては〈人間〉ということばにひけをとらないだろう。「それは人間というよりも、生物である」という言い方において、〈人間〉の概念をある程度放棄できるのである。たとえ記号として〈人間〉ということばが残ったとしても、すでにそれは実体も概念もない単なる死語であって、怖(おそ)るるにたらないものなのである。
 〈生物〉ということばは特定の生体への呼名ではないから、その背面にいわゆるものという概念を癒着させている事実を容易に知ることができる。そのことは、たとえば生まれたばかりの赤ん坊を想像していただければわかると思うが、生きているものというだけで赤ん坊自身には自分は〈人間〉なんだという自覚があろうはずもなく、ましてや「太郎」だか、「花子」だかわかるはずもない。赤ん坊の知能が発達し、見たり考えたりし、ある種の自覚が芽ばえるまでは、赤ん坊はいわば〈無名なもの〉といってよく、単に〈生物〉としてのものと考えてよい。いうまでもなくそれは〈人間〉の領域にありながら、〈人間〉の概念で律するのは難しい不可思議なものというほかはない。ものの本質が常に記号性や概念性を取り払ったところにあるというのは本当である。
 大きくなった赤ん坊が性癖やことばや記号や関係などにしばられるのは、非常に公的な、私語の禁じられた概念空間に住み、そこに何ら疑問をもたないからである。そこでは〈人間〉のことばは話すけれども、もののことばを教えられなかったという理由でものの本質を見失ってしまったのかもしれない。もののことばは沈黙の方向にある、そしてものの本質は無名にして、すなわちものであることであり、相対する何物もないということである。
 さて、仮にここにものという原認識によって識別されるものがあったとして、問題はその概念化の着色をほどこされないものの状態をいかにそのまま持続させていくかである。しかし、ものがそのままものとして認識される次元では一定の状態を保っているのは当然だから、ものの状態の変移によってものそのものの認識をとらえると考えるのは少し計算が甘いというほかない。さらにまた〈状態〉は事物の現象を知覚させる大きな力をもっているので、ものを〈状態〉のなかで消化させてしまうことは逆に記号化の手立てを与えてしまうことになりかねない。われわれの視線のとどく範囲に在る事物の在り方、つまり知覚する主体を中心にしてある事物の位置が〈状態〉と呼ばれるところのものであるから、それは純化されたシステムのなかでしかあり得ない在り方ということができる。だから〈状態〉は視界に無い事物に対しては単なる想像力の連なりとしてあるにすぎない。
 だがものはなにも視界に在るだけがものとしてあるのでないから、〈状態〉の持続がものの本質的な意味での持続にはならないだろう。
 われわれがまさに望むべきはひとつの意味としてありながら、体系のなかでは御し切れないことばなのであろう。それは〈状況〉(場)ということばである。ものということばが日常の空間で使用されている記号、たとえば水とか土とか草などの概念化、意味化の強い記号をしたがえ、それでもなおかつお定まりの言語体系からはみだしたところにあると同様に、〈状況〉ということばも記号的な意味よりもひとつのトータルな世界観としてあるのだ。そのなかには記号も概念も、認識論や方法論さらに時間性や空間性をも包含しているのであり、ものという意識さえそのトータルな状況のなかにおいては、個々のものの本質よりもトータルな意味での〈状況〉のリアリティをどう表わすかという点に集約されてしまうのである。
 〈ものの本質〉とは、すなわちもののリアリティということである。それは単に事物の〈状態〉だけによらず、ものが〈無名である〉という独断的な認識論によっても判別されるものではなく、また特定の行為のプロセスによって明らかになるのでもない。ものの位置とイデアルな〈状況〉が同じ力を有していて、バランスを保ち重複した時に始めてトータルな〈リアリティ〉が見えてくる。ものそのもののリアリティは〈状況〉のリアリティでもあり、いいかえればものの本質は〈状況〉の本質でもある。それなら〈リアル〉ということのリアリティのトータル性は最大限どこに集約されるかといえば、それは〈状況〉にである。
 しかしながら〈状況〉ということばと認識を、一般的な意味での〈広さ〉を構成する意味合いとして、わたしは考えたくない。むしろ限定された〈広さ〉のなかにものがあるのではなく、〈広がり〉といった類の無限定さをわたしは考える。そしてその〈広がり〉は空間のみをときはなつ類のものではない。〈広がり〉を〈広がり〉として保つのには何かしらものが必要であって、それがなければ〈広がり〉はリアリティを持ち得ないだろう。〈広がり〉というのは〈状況〉のたとえであるから、前述からすれば〈状況〉にはものを位置させる地点というか、それに類似した接触点が必要となってくる。この接触点に関してわれわれの多くは今まで〈関係〉という、はなはだ不鮮明なことばで言い表わしてきた。〈状況〉のなかの接触点は、〈関係〉で示されるごとく意味作用を強要しない。〈関係〉というのは選択されるところの価値基準が前提になっているが、接触点は価値の選択はまったく考慮されず、必然的にそうあらねばならぬ位置を問題にしている。〈状況〉つまり〈広がりのリアリティ〉とはそれによって最も自然であるという意味である。
 ここに至って、わたしは自分の個人的な仕事を基盤にして〈状況〉のリアリティがどのように本質をかたちにしているのか具体的に解明しなければならない。ことばが〈人間〉を形成している要素であることはすでに周知の事実であるが、それではものには〈ことば〉がないのだろうか。いやもの言わぬものでもことばはもっているのである。それはわれわれが聞こうとしないゆえにことばと感じないだけである。〈もののことば〉は〈もの自体〉のなかにもちろん在る。われわれにとってそれは、ある種の現象とか性状とか質量などとして表面的に写る場合がほとんどなので、われわれは個別に示されたひとつのものからはことばを読みとることは難しい。人工物と自然物の場合でも始めからものの在り方は違うし、同種の事物がひとつの時と複数の時とはまったく違ったリアリティを形成するだろう。
 ものをつくるということは、自分が選んだ事物に最大限のリアリティを生ぜしめる位置を与えることと、単なる広さである〈空間〉をもので遮蔽することによって〈状況〉にしてしまうことのふたつである。〈もののことば〉は、このふたつの事実によって最も多く語られると思われるからである。仮に、わたしが〈もののことば〉を感じ取った時にその〈状況〉はすでに不用となってしまうのであるが、〈状況〉によって現出した本質は、わたしから遠く離れたところでますますリアルに生きつづけるのである。
 わたしは自分のふたつの意識の柱を支えるために、これまで多くは自然物、すなわち石とか樹とか水とか砂などを用いてきた。これはただ手に入りやすいというだけの理由ではなく、自然物と呼ばれるものにはモデルがないからである。〈人間〉がセメントで建物を造ったり、鉄で自動車を製作したりする時に必要な〈人間〉の想像力を基にしたプランニングによる事物を統制するプロセスによって、〈人間〉のための造形品にしたてあげるのは、なんらかのモデルを〈模倣するプロセス〉にほかならない。
 この〈模倣するプロセス〉には私語を禁じられたものが従来の〈物〉として取り扱かわれるシステムが依然として残存している事実を示している。つくられたという事実の強烈さに弱められた模倣の事実を考えることは、イマージュに左右されるつくるシステムの一端を明らかにするのではなかろうか。さらにもののリアリティとは何かということを知覚する発端をになっていると思われる。
 〈物〉は模倣できるが、〈もの〉は模倣されない、〈関係〉は模倣できるが、〈状況〉は模倣されない。なぜなら〈もの〉も〈状況〉もその知覚する入口を現象にたよっていないからである。それは〈もの〉も〈状況〉もインフォメーションにのりにくい性質のものであり、現象を事物や事象の価値を推しはかる基準にしている世界では、〈もの〉も〈状況〉もパターン化された認識方法では十分に伝達されるべくとらえられないのだ。逆に〈もの〉も〈状況〉も一般化されてしまったらおしまいで、できるだけそれに取りつく入口を狭めていかなければならないものと考えられる。
 形がある事物とそれをとらえる視線がある以上、模倣は当然予測される。が、〈人間〉が模倣の手立てに使用するのはまさに〈物〉である。たとえばここに形ある〈物〉があり、それを模倣したなら、模倣される〈物〉に対応するのはつくられた〈物〉であって、模倣を企て、つくった〈人間〉ではない。それはどうも片手落ちではないかといいたい。すでに模倣されるべくかたちとなってしまった〈物〉は、〈もの〉に変容する性質をはらんでいるとは言い切れず〈人間〉が〈物〉を〈もの〉として用い、認識させようとする魂胆は始めから無理なのかも知れない。〈もの〉というのは本質的に模倣される〈もの〉の範疇にはない。つまり〈もの〉はモデルがないからである。
 模倣とはマネされる〈物〉とマネする〈人間〉の二者からなる、トータルのイマージュの産物である。この二者共存共栄からなる産物は、概念のクサリを断ち切る力はさらさらなく、〈模倣〉自体の本質を暴き出すというほどの力もない。これは〈模倣〉の側面である命名作用が、現象として強く表に押し出されるゆえであろう。ひとりの〈人間〉がかかわった〈物〉が〈模倣〉の汚名に甘んじねばならないのはまったく単純な意識の欠落によるものである。その欠落した意識とは〈個〉としての〈人間〉のもつ現状況の認識にほかならない。〈人間〉の行為がどのような根拠に基づこうとも、行為そのものが〈模倣〉の構造によって左右されているとするならば、その全部をひっくるめて現状況のトータルな視野いわば位置をかえる必要がある。
 〈模倣〉には同じこと、あるいは同じもののくり返しという意味合いがあると思うが、ひとりの〈人間〉が同じくり返しをする〈状況〉と、他人が別人の考えや認識や方法を借りて、同じようにくり返したとしても、それは前者の〈状況〉とは異なる。なぜなら後者は目的意識の完結をめざしているからである。前者はくり返しによって〈状況〉の持続を意味している。それゆえその場の知覚もなくてなされた事柄は模倣にすぎないのである。その場に現存する〈もの〉や〈状況〉には、ある歴史のような、現に在りながら〈ながめ〉られてきた時間帯があり、それは非常に個的なものである。が、模倣による所産は切り取られた時間帯の一部であり、まさに〈見られる〉ことにより、それであり得る概念である。〈模倣〉は、いわば死産に似ている。生まれてきたけれど育たない。つまりわからない領域を持っていないのである。育たなければ未知の、その者だけのことばも語らないだろう。
 わたしがいう〈状況〉は〈模倣〉あるいは〈複写〉される性格をまったく排除している意識に基づく相であり、いうなれば類推として処理されない相である。〈状況〉のなかのものが仮のことばを持つにしても、それはまさしく仮にちがいなく、仮が宿るものはつねにそのように在るのではないから、ひとつのプロセスが終了するともう仮として役立たなくなってしまう。しかるに〈状況〉は仮に在るということができない。あるのはまさにことばとしてのことば、〈状況〉それ自体である。
 このような〈状況〉の認識であるために、それは〈人間〉の構築物(形)として当然残り得ないし、つくるという意識では語ることができない。〈状況〉は、すでに在るシステムの崩壊に根ざしたものであり、まさに事物が壊れていく過程で〈状況〉とはなんであるかを、思考し感ずる領域が開かれてくるというべきである。
 〈模倣〉することがつくることのリアリティを目指しながら、結果としてもののリアリティを削減したことに気づいた時に、われわれの前にまだ無名であり得る領域が残されている自然物が浮かび上がってくる。もともと石とか水とか樹木は〈人間〉の想像力や機械や技能などによって〈模倣〉されるしろものではないし、つくられる概念性にしばられないものである。水が水という記号を、石が石という意味を削除されたとしても、もののリアリティまでのぞかれてしまうわけではない。もののリアリティは、そのまま手を加えたりせずに在りのまま使えば使うほど位置を占有し、〈状況〉を構築するのに役立つ。自然物はものが可視空間で最も元素性を保有している事実を証明するだろう。それにより設定された〈状況〉は〈人間〉のことばに簡単に還元できない。誰かに作品の釈明を無理に望まれた時、あわれなくらい外見上の説明に終始するのもこのためであると言わねばならない。
 公の〈人間〉のことばでいくら〈状況〉を説明しても、結局なにも本質的に説明しつくされない。そこで用いられている自然物にはそれを選んだ〈人間〉にしか解説できないような、いわば私語のような非常に狭い意味のことばしかないように思われるからである。逆説的な言い方をすれば、わたしが自然物を用いるもうひとつの理由はそこにあるといってよい。たとえば水は、概念世界のなかではどこにでもいかなる時間、空間の場でも存在させられるものである。それに比して記号体系の基となっている世界では、水はそれ自体としてそこにしか無いものだ。そこにあるのはある人にとって水でないかも知れないし、別の人には別の呼名、たとえば空と呼ぶものかも知れない。しかし、そこでのそれは、リアリティとして確かに水であり得るのであった。
 ものは無名であるとわたしは先に述べたが、それを無名として使うか、有名として用いるかは選択する〈人間〉の自由であるが、少なくともわたしは無名のものを有名のものとして(最初から意味あるものとして)使いたくはない。さらにまた、無名の世界に在るものをあえて記号の世界に投じてがんじがらめにしばり、恣意的に推しはかっていくようなやり口には賛成できない。そのことは想像力を超えた未知のものの世界をとざすことになりかねないからである。無名なゆえにリアリティを高揚する自然物を用いることによって、持続するトータルな〈状況〉の意識を確かめたいのだ。
 それでは〈自然物〉のあるところの〈自然〉とはいかなるキャラクターに支えられているか、ものとの接点をどのような形で包有しているのか。わたし自身を構成している日本のことば、習性、伝統、血筋、経験、人間関係、知識等あらゆる構成要素を臆面もなく視覚動作に集約して、自分とかかわり合いを持ってくるものや〈状況〉をひとつの志向性でしきっていくのはさけられないといわねばならず、このかかわり合いは、つねに〈現在〉におけるそれに向けられているのである。〈現在〉へのかかわりは、〈人間〉を支えている二本の柱、ナショナリティとパーソナリティのうちのパーソナリティを強く押し出し、ものの意識がこれによって持続されることを意図している。われわれの多くの行為はほとんどこのパーソナリティを基にしており、いわゆる外自然に対しての接し方、見方に関してもその姿勢をくずすことがない。わたしはいま見方といったが、それは〈自然〉のながめ方といったほうが良いかも知れない。なぜなら、ながめ方のほうが見る方法論より以前にある素朴で原理的なことである気がするからだ。わたしの場合はいつの時でもながめているのであり、それは自分のパーソナリティだけに対応して〈自然〉があると思わないという理由による。事物と〈人間〉を相対させる位置で〈自然〉を認識するアメリカ人の例に比較するなら、われわれ(そこに土着している)のながめ方が方法論上の見方と違うことがはっきりするだろう。
 アメリカ人の場合、〈自然〉はかれらのナショナリティでもって支えられているものだ。それには〈自然〉としてのリアリティを感じさせる構造はない。あるのはワクに近い〈自然〉の概念とそれを支える想像力と物理的なパワーだけである。かれらがアウトラインだけの〈自然〉にリアリティをもたせようとしてすることは、ワクの外から、馬とか牛とか草とか石とかあるいは空とか星とか〈人間〉を引きずり込んで整え、〈人間〉をつまり〈アメリカ人〉を中心にした生活環境をつくり出すことだった。そのため〈自然〉のなかに在るものでかれらアメリカ人の有用性とか有意性によって価値判断されないものはない。かれらのパーソナリティがどのような場合でも、〈人間〉の有用性、有意性がつくる意識の源になっており、元素的な石や土や水や光なども単に〈人間〉のために〈自然〉をつくり出す媒体でしか無い。それゆえリアリティのある個々の元素的なものは〈自然〉を法則として見る〈見方〉でしか認知されないのであろう。
 ならば〈日本人〉の元素的なもののながめ方は〈自然〉の単なる代替物で無いというのだろうか。これまで〈日本人〉のものへの対処の仕方は唯物史観にとらわれすぎていると批判されてきたが、わたしはそう思わない。その理由はふたつある。ひとつはいわゆる〈ワク〉の概念がなく、在るのは実体の観念だけであるということ、もうひとつは、ものの在り方が〈集〉の考え方でなくて、〈個〉の自覚で成り立っている、ということによる。
 この〈ワク〉の概念は、先に書いた〈人間〉の意味合いと等質のものである。だからと言って、日本人がことばや記号やその下地である通文化や歴史とまったく無関係に生きているといっているのではない。事物に記号を付した場合の記号性の問題であると考えるのである。たとえば〈人間性〉といったような場合の〈性〉が、〈人間〉という種族の概念にかかわっているのか、それとも血も肉もあるひとりの〈人間〉を根底にした言い方であるかどうかである。この場合の種族は、〈ワク〉の概念ということができ、そこは特定の法則にのみしたがって価値が定められている相ということができる。ここにおける法則の性質はひとりひとりの〈人間〉の位置とそのプライベートな距離を問題にしていない。いわば〈人間のワク〉と〈自然のワク〉という相反関係よってのみ成立するところのものである。当然その関係では、ひとりの無名である〈人間〉とものであるひとつの石との関係は成就し得ない。あるとすれば、記号と記号、記号と有意性、有用性のつながりだけであるといってよい。
 一方、〈人間〉が無名でひとつの実体としてある場合には、ひとつの〈人間〉の実体はひとつのものに結びつけられる。その場では、〈人間〉とものは等価な比重を持ち、実体の位置は個々のものの距離とその間の空間構造によって設定されていく。ものはこの放散の志向性で支えられているといっていいのである。個々の実体の放散性をさえぎる実体がものであり、ものとものの距離空間が〈自然〉というものだからである。いうなれば、すべてのものが主体である根拠がここにある。日本人の自然観はものとものとの間にあるから、ものそれ自体ものがありながらそれを感じさせない空間の構造、それを別の呼び方でわたしは〈状況〉と呼んでいる。
 このように、名目上ものという言い方で実体をとらえたとしても、その本質は、わたしに関する限り〈状況〉と呼ばれ、さらにその〈状況〉は〈自然〉といわれるものと同種異相の根であると考えられる。それゆえに、かまびすしい唯物論であるとの批判を否定し得るのである。
 ものをいじるうえでイデアルな〈状況〉、〈自然〉は、あくまで個であるという考え方によっている。それはまた外来の唯物史観を打破するもうひとつの根拠でもあり、特に唯物史観の〈個〉と相反する〈集〉の体系をなしくずしにすると考えられる。〈集〉はナショナリティによって性格を色づけされていて、パブリックな存在としてその役割をかたちづくられている。パブリックな存在は〈個〉にとってまったくイマジナティヴな力としてのみ存在するものだ。
 わたしのいう〈個〉とは、〈集〉のなかにおける〈個〉ではない。〈集〉はイマジナリーで律せられているのだから、そのなかの〈個〉は非常に確かな記号に還元され、共通の言語空間を所有していると思われる。この場合の〈個〉は、概念としての〈個〉そのものであるのだろう。そうだとしたら「物は物である」と〈個〉を規定したとしても、まさしくそれはそのとおりであるといわねばならない。これでは唯物論を打破するどころではない。
 共通概念および共通言語を持たない、いや持ちえない〈個〉、始めから物としてなく〈個〉としてあるものがわたしのなかの〈個〉である。それはパーソナルにしか存在しなく、パーソナルにしか伝達できないものだ。わたしが〈個〉としての〈個〉を知覚する場合それは狭い意味のパーソナリティと感じるのであり、それを誰かに伝達する場合にも同じように非常にパーソナルなかたちでしかできないだろう。そしてパーソナルなものが広がりの極限としてある状態が〈自然〉であると思われる。われわれは現に見なれている風景としての〈自然〉を〈人間〉として共有しているような錯覚におちいっているが、われわれ自身もまた〈自然〉のパーソナルの一部であることを自覚する必要がある。
 〈状況〉は、トータルな構造組織を非常にパーソナルに〈ながめられ〉、感じられる世界といわねばならないが、この〈ながめる〉という感知の仕方についてもう少し説明を要するだろう。周知のとおり〈人間〉の感覚器官には五官があってそのひとつに眼がある。つまり視覚である。〈見る〉ことは視覚によって客体(目的物)を選定した上で、他の単なる物体から区別し、特定性と意味を与える作用を根底にしている。物への秩序というか、記号体系に至るパスポートであるヒエラルキーを与える役割が、〈見る〉ことであると思う。〈ながめる〉はこれと多少ニュアンスの違うものである。それは〈視野〉とか〈視界〉という感じ方に近い。客体と視覚者というほどに、〈視野〉の場合、ひとつの秩序を志向するボーダーラインがない。また、〈視野〉と〈視野の外〉との間にも明確なボーダーラインを引くことはできない。なぜなら〈視野〉は個々の事物の単位をはかるための手段ではなく、事物の総体をはかるための手段にすぎないからである。個々の事物に意味と記号を、〈視野〉は与えない、そのかわりものの位置を与える。〈視野〉のなかで事物は等価で等質で等距離であるといえる。何から等であるかといえば、トータルなもののイデアからである。
 〈見る〉は、より〈人間〉に付随した概念規定である。というのは、認識作用と意味作用を同時にその裏付けにしているからである。それにひきかえ〈ながめ〉の場合は、種々の状態とか情況の一定を示すことばである。それゆえ、特定の〈人間〉の思考や行動過程を隔てなくても、〈ながめ〉は風景のなかで不変的な〈状況〉として、現に在る存在である。〈見る〉状態と、〈ながめ・る〉状況の最も異なる重要な点は、それぞれの領域に介在するものの本質の違いであろう。〈見る〉状況に介在するものは、もののシステムではなく、〈人間〉のシステムをよりどころにしている。それはものをつくる人間の〈視覚〉なしにものはものであり得ないということを示しており、ものに意味があるから価値があり、目的が定まり必要性が生じ、〈見る〉状態が設定されることが前提にある。結果としてものには無駄なものがないことになる。ある時点で〈見る〉必要がなくても、有用性が生じると〈見る〉ということでもある。
 それにひきかえ〈ながめ・る〉状況に介在するものは、最初から無用で無駄なものという観念性で支えられている。それは、〈ながめ・る〉領域に在るものはそれぞれに意味を持ち得るために〈ながめ〉られるのではないということであり、むしろ領域をおのずから構築するためにのみ在る。たとえ〈ながめ・る〉本体が入れ変わろうとも、〈ながめ〉の風景は一定の領域と位置を固持している。その上ながめのなかのある箇所なら事物が移動したり、なくなったりしても、そのことは、ものの本質にかかわり、〈ながめ〉の観念性までも変えてしまうわけではない。それは現象的な変化としかみいだせないだろう。
 トータルなものの位置、それが〈ながめ〉の位置でもある。たとえば〈ながめ〉の領域にいくつかの岩が散在し、草が一面をおおい、何本かの樹木が茂っているとする。われわれの眼はそのひとつひとつの事物を見わけることができる。なぜならあらかじめ付されている記号をわれわれは(意味を考え合わせた上で)知っているからである。しかしながらトータルなものの〈ながめ〉に対して完全に類型化した記号を持っているだろうか。否、持っていない。あるのは〈ながめ・る〉という観念性のみである。当然のこととして、〈ながめ〉は無駄なもののシステムによって成り立っている。無駄なものとは〈人間〉の〈用〉に役立たないものである。と同時に〈不用〉な時でさえ〈人間〉の〈視野〉を遮断する確固とした位置を持っているものだ。
 もののシステムとは位置の無名性を得、かつ新たに非常にプライベートな視野を誘引するものの位置を指している。
 さて、わたしの考える〈状況〉は、こういう無駄なもののシステムへの観念性にその多くを肩がわりさせていると考えていいのである。が、無駄なものは具体的にどういうありさまであるのかといえば、わたしはこのことを〈放置〉してあるということばで表現している。これまで何度か、〈放置〉ということばをものに付してきたのはこの意味からである。そして、このことばをもののリアリティを指し示す意味として用い、もののトータルな位置、つまりひとつの〈拡張〉を指示することばとして使用してきた。
 いままで書いたパーソナルの内容には〈人間〉の体系からはみだした、生きものの個体という意味も含んでいたが、もっと極端にもの自体の有意義な性格さえも排除した、個体のパーソナリティを想起した上で〈放置〉ということを考えたのである。〈放置〉の観念性をものにたくした時、ものは〈人間〉にとって、不必要な面を表沙汰にする場を必要としているように思う。〈放置〉されたものでも在る事実に関しては、単におかれたり、ならべられた事物でもそれが意図的であろうと、なかろうと本来変わりがない。〈放置〉という事物の在り方が〈放置されたもの〉として認識されるにはふたつのリアリティが必要である。それは事物のリアリティと在り方のリアリティとである。このどちらか一方のリアリティが欠けても〈状況〉に根ざしたものの〈放置〉はあり得ない。〈放置〉とは〈人間〉にとって無用の長物と化したものの最後の場の〈状況〉認識である。また〈放置・する〉ことには目的を達する志向性がふくまれていないので、認識の上でも行為の上でもまさに〈放置・する〉ことで表明される〈状況〉であるといってよい。いわばものの在る位置のリアリティの最終段階であるといってもかまわない。
 わたしが造形をつくるというような概念を極力否定してきたのは、つくるということにはもののリアリティが、それによって表明できないと考えたことによる。なにも〈人間〉の手を隔てなくても、もののリアリティは確かに在るのであり、独立したものの観念だけで認識されもせず、〈自然〉と呼ばれるところに、もっと狭い意味で〈日常〉の場にそれはある種の領域として感知される。
 これにより〈日常〉は、永久不変の〈放置〉の場ということができる。〈日常〉を〈日常〉と感ずるその時が、まさにもののリアリティ、すなわち〈状況〉を垣間見る時である。〈日常性〉を剥奪した事物で、もののリアリティ、ひいては〈状況〉を表明しようとすることは不可能ではないだろうか。〈日常〉の場においてものは〈放置〉されてあるのだから、その上どのような〈状況〉でそのリアリティを得られようか。人間の手が加えられれば加えられるほど、もののリアリティは失われ、〈日常〉の領域からはみ出ていく。なぜなら〈人間〉のイマジネーションが入ってくるからである。まさに〈日常〉はイマジネーションの欠落した〈状況〉といってさしつかえない。〈日常〉の放置されたものはどのような外力が作用しても、つねに〈状況〉として知覚されることが必要である。同時に、〈放置〉は〈人間〉の観念のリミットを越えた、その時点から始まる位相をさしている。

初出:『美術手帖』355号、1972年5月