〈線〉の世界 (1979)
 

 〈線〉とはなにか──現に実作することに専念している人間にとって、この直截な質問に即座に答えるのは、たいへんむずかしいといわなければならない。もちろんここでは、美術作品をつくるうえでかかわってくる〈線〉、あるいは〈線状〉のものを対象にしている。
 これまで、美術作品において、線あるいは線状のものを印した作品は、それこそ、無数といっていいほどつくられてきた。しかし、それらの作品のうち、どれひとつといって、同じ意味、条件、価値を付されているものはないのではないかと思われる。たとえ、一人の実作者が、ある観念のもとに、同じような素材を用い、同じ条件のもとで、一定の法則にのっとった行為で描いたとしても、厳密には同じものはできないはずである。これはいわば、つくりものの世界(美術作品を含めて)のもっている基本的な性格のためだと思われる。
 ここで、わたしがいうつくりものの世界というのは、知識、体験、イメージなどを柱として、つくられたもののある世界のことを指している。また、現に事実としてある構造や実体物を、無視しても成り立ちうる世界といってもさしつかえないであろうが。
 このつくりものの世界では、事実やモノの存在の仕方が、そこに住む人々に都合のいいように、ごく自然にゆがめられているけれど、実際にそのほうがいごこちがいいので、なかなかそれを是正しようとする力は生まれてこない。ところで、アーティストは、そんなつくりものの世界をかたちづくる役割の一角を担っている反面、表現するということで、つくられたもの(作品)の噓をあばき、本質をあきらかにしてみせる立場にもいるわけである。
 では、このような立場にいる美術家が、素材や道具、あるいは意味の要素として用いる数多くのもののなかのひとつである〈線〉というのは、いったいどんな性格や意味をもたされているのだろうか。
 一九七九年から八〇年のはじめにかけて開かれた「ライン・プラス・ムーブメント」展は、この疑問に答えるだけの充分な作品を提示したものであったが、その前に次のようなことを頭にいれておくと、より理解がえられやすいのではないかと思われる。
 〈線〉は、知識や教養、概念や視覚体験だけで描くことはできないとは、決していうつもりはないのだが、美術作品において、〈線〉あるいは〈線状〉のものを描いたり、考えたりするには、前もって線が描かれている平面や表面、さらには面状についてもあらかじめ考えてみる必要がある。それというのも、この描かれるほうの事物を考えることが、間接的に〈線〉や〈線状〉を考えることになると思われるからである。たしかに、電線のように、空中を横切る線状がないでもない。しかし、それは描かれた〈線〉といったものとは、一線を画して考えなければならないであろう。
 ともかく、キャンバスや紙の類に則していえば、キャンバスや紙は、これまで見てきたかぎりでは、無限に大きいとか広いということはないのだから、必然的に限定されたカタチがあることに気がつく。そして、このキャンバスや紙のカタチが、当然そのうえに描かれた線や線状になんらかの影響を与えることは、充分に予測される。まさか、一定の大きさのあるキャンバスを用いていながら、その上に引かれた線だけが重要なのだということは、よほど空間性に無頓着でないかぎり、ありえない。だから、まず、〈線〉の補助的な理解として、素材の質、カタチ、色彩といったものについて、過不足のない読みとりがなされなければならないであろう。たとえば、シェイプド・キャンバスなどに引かれた線を見るのに、キャンバスのカタチを見ないのは、致命的な誤りになるおそれがある。
 モノにはカタチがある。それなのに、カタチを見ないことは、いうなればモノを見ないということになり、それはまた、モノがそなえている性格や本質を理解しえないことにもつながっていく。ここでモノのカタチとは、単なるかたちのみならず、モノの総体を指し、かつ実体性を示すことばとして使っている。モノにはカタチがあるけれど、そのカタチを平面上に置きかえると、カタチの輪郭は、面と面とを区別する役割を有し、いわゆる境界線と呼ばれることもあり、ある意味で〈線〉の範疇にいれてもおかしくないかもしれない。このようなことから推して〈線〉や〈線状〉は、ときにはもののカタチ(実体)のほうにより近く、いわばカタチの一要素としてあるといえる。この認識は、二次元の素材に描かれた〈線〉や〈線状〉を解釈する上でつねに頭のなかにいれておかなければならないことである。なぜなら、平面上に印されるのは単に、一本の細い線のみではなく、かなりの幅を持った線状が描かれ、それを〈線〉の概念で解釈しなくてはならない場合もあるからである。
 そのいい例が、この「ライン・プラス・ムーブメント」展に出品されたバーネット・ニューマンの作品で、幅広の線状が、長方形の紙に描かれている。これなどは「平面の上に描かれた線」といっていいかどうか、ほんとうのところわからない。線状であることはたしかだけれど、それらが〈線〉を描こうとして描き、さらに〈線〉の概念で理解し意味づけできるものとして提示しているのかはなはだ判断がむずかしい。少なくともわたしには、それらが〈線状〉に見えながら、〈線〉の概念ではなく、むしろ面とか二次元といった概念でとり扱ったほうが、容易にその内実に肉迫できるような気がしないでもない。
 なぜ、このような考えが先立つかというと、ニューマンの場合、〈線状〉は質の変換により多くかかわっているからなのだ。均質な紙やキャンバス地の空間に帯のように印される線状は、完全にその部分の空間を変えている。この空間の質の変化は、本来〈線〉を定義する上ではそれはど重視されるものではない。それなのにニューマンの〈線〉が、〈線〉の概念規定としては、さほど重要でもない空間の質にかかわっていることに注目しなければならないだろう。なぜ、かれの場合はこうなるのか、考えて見ると、それはこういうことであるかもしれない。
 ここに出品されているニューマンの作品は、一九六九年頃の作品だが、そのどれにも共通していえることは、線状が印されている地がみな、色もなにもほどこされていない生地のままであることだ。なにもほどこされていない無地の空間に、黒々と、あるいはなにか色を用いて、まるで横断するかのように帯状の〈線〉をほどこしている。そして、この色の線状は、あたかもそこだけが、従来の生地とは質が変えられてしまったかのようにさえ見えるものである。このことから考えて、かれの〈線状〉はもともと〈質〉というものにかかわりが深いものであるように思われる。
 だから、ニューマンにとって、なにも描かれない矩形のキャンバスや紙の広がりは、すでに特殊な〈質〉をもった世界といえるだろうし、そうであれば、かれが目論む〝空間の質の変化〟は、つねにそれ(生地のままの状態)が基準とされ、それとの対比、比較によって、かれの空間の〈質〉の変化の差が語られるといえるだろう。さらにまた、この〈質〉の差が、いつもフレームの外にはみだしていないことに着目するならば、〈質〉は見る者によって、カタチにも還元され、ときには単なるモノのカタチだけではなく、もっと内在的な〈質のカタチ〉といったことも考えさせずにおかないものなのである。
 ニューマンのこのような〈質〉の差を示す発想は、ずっと長い間つづけられているふしがある。たとえば、一九六五年の《トレイド》も質の成り立ちを示すものであるし、一九四九年頃の作品における《ワンメントⅢ》などにもその傾向がみられ、いずれにしても色が、単なる色の概念でなく〈質〉としてみられるほど、観念化されているといってもいいすぎではないであろう。
 「ライン・プラス・ムーブメント」におけるニューマンの〈線〉は、画面を端から端まで横切る帯状の色面だが、色面の描かれ方によっては、ハード・エッジふうのものにとられないこともない。しかし、いわゆる〈ハード・エッジ〉ではない。かれの作品は、ハードではあるけれど、エッジ(ものの輪郭を表す線)というものがない。それというのもかれの線状は、本質的に色面の分離統合をねらったものではないからである。
 〈ハード・エッジ〉といえば、むしろエルズワース・ケリーの作品を論じるときに、よく用いられる。ケリーの作品は、すでに多くの人々が知っているように、色面と色面をキャンバス上にはっきり描き分けているものだ。わたしは、これまで、完成された作品(いうなれば、キャンバスに完全にいくつかの色面をのせた作品)しか見た経験がなかったが、そんなとき、ふと疑問に思ったことがある。それはキャンバス上に色をのせていくとき、はたしてどのような下図を描くのかと、いうことである。なんの下図もなしに、そのまま、色分けしていくとはとても考えられないから、鉛筆とかコンテなどであらかじめ〈線〉を引いて、ちがう色をのせていくようにしつらえることは、予測される。
 どうしてわたしがこのような下図に興味がわいたかというと、わたしはケリーの色ののった、出来上がった作品のなかに〈線〉の存在を感じたことがないからであった。
 ケリーの作品で、強いて〈線〉と考えられる部位は、色面と色面とがぶつかりあったところである。そこは、はじめから〈線〉を模索した結果ではなく、ちがう色相をほどこすことによって、必然的に立ち現れる〈線〉だということができるだろう。だから、その境界線となって現れる〈線〉は、色相に依存しているわけで、異なる色面を分けるものであると同時に、接続する役割も担っているわけである。つまり、色面をひとつの世界とみるならば、いくつかの色面を支えている〈線〉は、そのいくつかの世界の異なった性質を持っていることが考えられる。それゆえ〈線〉の動きも、色面の在り方に左右されてくるといえるのである。このことはボーダライン(境界線)が、独立した〈線〉として、認識され論じられない理由のひとつとなっているように思われなくない。
 ケリーの表した〈線〉に、少なくともこのような性格が多分にある以上、いちがいに〈線〉の概念をあてはめて考えることもないであろう。わたしは、いまそこを〈線〉と考えず、隅の辺というように考えている。
 ところで、外来語の「エッジ」というと、いかにも立体物の角を指すような感覚があり、ケリーの、色面の対比と統合といった面からすると、どうもそぐわない気がしないでもない。まして、この展覧会のケリーの作品にはあてはまらないもので、どちらかといえばすでに色をのせた作品よりも〈線〉というものをあからさまに感じさせるものであった。それはごくあたり前の紙に、あたり前の〈線〉を引いたもので、色はついていなかった。わたしはそれを見て、〈線〉がもともともちうる様式の一端を考えずにはいられなかった。
 ケリーの〈線〉(この作品では、こう呼んでもさしつかえないと思われる)は、われわれも通常よく用いる方法で描いたもので、あるカタチを示すための〈線〉にちがいなかったけれど、具象的なかたち、動物とか植物とかそういったもののかたちを表したものではなかった。それでも、こういう場合の〈線〉の意味は、カタチの意味のための二次的なものになりやすい。しかしまた、表そうとするカタチの意味と、その比重においては、同等の重さがあることもたしかであった。なぜなら〈線〉がなければ、カタチの意味は、生じないからである。このカタチを統御する点において、ケリーの〈線〉はたいへんニュートラルな性格をもち、かれ自身〈線〉というものが、空間でどのような働きをするものなのか、充分に計算しつくしているといえなくない。
 ケリーの〈線〉は、ここでは三角形のようなかたちを示しており、よく見ると、空間に付された点と点とをむすんだ〈線〉が、いくつか交叉した結果できたものであることがわかる。点と点とを結んだ〈線〉は、どちらかというと、直線的な動きを示すのに、よりその効用を発揮するように思われる。
 たとえば、ジャッドにおいて、直線的な〈線〉は、かれの立体のための〝図〟を描くのにとても有利である。ジャッドの場合、〈線〉は、たいがい直線的に用いられており、これはかれがつくろうとする造形物を平面上に置きかえたからにすぎない。ジャッドはおそらく、〈線〉そのものに執着して用いているのではなく、〈線〉が表すであろう図とその意味とが必要なのであって〈線〉はただ現れる図と意味とをより明確にするための道具でしかないのであろう。だから、観客はかれの〈線〉にたちいる前に、まず図の意味を理解することが先決で、もしそれがスムーズにおこなわれさえすれば、〈線〉が多くの場合、直線的であることも、またその必然性もよく理解できるのではないかと思われる。〝図〟のための〈線〉の観点からみると、この展覧会の「ムーブメント」というテーマを担っているカンディンスキーやクレーの作品にも、観念とか、方法様式のちがいはあるにしても、多少同じようなニュアンスを感じないではない。なぜかというと、カンディンスキーもクレーも〈線〉を用いて、図(というか絵)を描いているのであり、〈線〉そのものを主眼としているのではないからである。
 さて、この展覧会「ライン・プラス・ムーブメント」展には、ほかにピエト・モンドリアン、カジミール・マレーヴィッチ、マックス・エルンスト、ハンス・ベルメール、ブリジット・ライリー、ロバート・マンゴールド、ハンネ・ダーボーベン、アグネス・マーチンなどの作品が出品されている。なかでもアグネス・マーチン、ロバート・マンゴールド、ハンネ・ダーボーベンのものは、目をひく。かれらに共通している点は、平面、たとえばキャンバスや紙の類を、すでに一定の構造様式をそなえたものとしてとらえていることである。このため、紙やキャンバス地になにか描こうという所作はみられず、平面なら平面そのもののリアリティを、より表にうちだそうとする考えがみられる。平面以外のなにものでもない。それゆえ、その平面性を逆手にとって、できるだけ平面の構造様式をさらけだすかのようである。いうなれば、さらけだそうとする構造様式そのものが、かれらの作品のシステムにもなっているのだろう。
 このことを踏まえると、そこにかかわるには、もっとも単純で明快な方法がいいわけで、必要以上に、イメージやことばをもつようななにかが描かれてはいけない。したがって、ごく自然に考えて〈線〉というものが重要性を帯びてくるのではないだろうか。
 マーチンもダーボーベンも、平面の無機的な側面にたちいるために〈線〉を用いているが、それらはあくまで、ある事実を、ひとつの方向性をもった強固な構造様式として、認識させるためにほかならない。そのため、同じ線のくりかえし、いわばセリアルな用い方をし、画面全体を、ひとつの存在としてとらえようとすることもうなずける。ただしマンゴールドにおいては、前二者とちがい、単色にぬった画面に対角線や垂直線を引いていて、セリアルではないが、その一本の〈線〉が、平面あるいは表面の様式性を強調し、表立つようにしているかぎりでは、その〈線〉の性格は前二者と、さほどちがったものではないであろう。
 しかし、かれの〈線〉は、画面全体をとらえようとするものだから、端から端までの対角線や、垂直線にならざるをえないのだ。もちろんこれらの〈線〉は、画面を横切っているからといって、バーネット・ニューマンの〈線〉と同じではない。

 

 さて、ここであらためて〈線〉とはなにか、と自問自答してみるのだが、正直いって、答も出てこないし、定義もできない。もっとも単純な動作による、もっとも明快なシステムをもっている〈線〉であるにもかかわらず、表しうるもの、示す意味の深さは測りしれない。それゆえ〈線〉はいつの時代にも、人々の指先から、表現として、はじめに印されるのかもしれない。

 

初出:『ライン・プラス・ムーブメント』1979年、康画廊