縁(ふち)に沿っていく(1990)

菅 木志雄

 

 わたしは、サテンのピカピカ光るジャンパーを数枚もっている。〈服〉に興味がある。うちに月ごとに『ミセス』とか『ヴァンサンカン』とか『婦人画報』など、ファッションや料理、インテリアの記事がタップリのった雑誌がとどけられ、それをあきもせず、ながめているせいだろうか。たいがいはオンナの人の服装で、そのデザインの移り変わりは猫の目どころではない。移り変わりについていこうなどと思わないが、ともかく一番新しいものが、見る対象として気になるものである。少し前まで、エスニックとかいって、各クニの独特の服のカタチをマネたものがはやっていた。色についても、やはり特色があって、日本人が着て、日本の風景のなかに立ったとき、はたして似合うかどうかと思われるものが少なくなかった。クニそれぞれの風景に合うイロ具合は、その風土の歴史から必然的に出てきたものにちがいなく、右から左にとはいかないだろう。でも、風土とは関係のないイロを、人は勝手に調合できたりするので、いったんとりつかれると、メンドウなことになる。わたしは風土の色をとらえたいと思う。
 わたしには、使いたい素材と使いたくない素材とがある。また別ないい方をすれば、使える素材と使えない素材とといったらいいだろうか。でもこれは、厳密にいえば、前述のものとは、ニュアンスがちがう。〈使いたい〉〈使いたくない〉という判断は、いささか感情的かつ心象的であるのをいなめない。が、かりに、〈使いたい〉〈使いたくない〉という判断の上に、ゼッタイという文字をかぶせると、いったいどうなるか。考えると、内容がかなりちがってくる。
 〈ゼッタイ使いたい〉ものと、〈ゼッタイ使いたくない〉ものとの、モノの差は、海と陸地の差ほどある。モノにゼッタイがつくと、感情的、心象的な感じよりも、思考的、観念的なニオイが強まってくるように思われる。〈ゼッタイ使いたい〉ものは、わたしにとって忘れがたいもので、機会があれば、いつかかならず使うことになる。〈ゼッタイ使いたくない〉ものは、どのような場合においても、使わないものとして意識の底に沈んでしまう。だから、ゼッタイという事柄は、自分の前のあらゆる対象物を取捨選択し、〈いるか・いらないか〉をあきらかにする内容を含んでいる。
 〈いるもの〉または〈使いたいもの〉を自分のまわりにあつめて、人は、その人自身の世界をかたちづくる。小さい世界もあれば、大きい世界もある、また、せまい場所もあれば、広い場所もある。つまり、〈使いたいもの〉がたくさんあれば、大きいスペースになるし、少なければ、小さいスペースになるけれど、大小のちがいがあるからといって、中味そのものに優劣があるわけではない。
 スペースの大小はともかくとして、わたし自身は身のまわりにいろんなものを集めているほう(嫌だけれど)である。素材になりそうなものは、なんとなくわかるので、どうしても身近に置いておきたくなるし、そういうものを見ていると、徐々にそれまでにない構造が現れてきたりする。といってすぐにそれらの素材を使うことはなかなかできないもので、四、五年ほったらかしてあるものはザラである。ほうっておかれたものは、時間の流れと空間の変化とを吸い込んで、なんだか複雑なものになってしまう。ときには、もうそれだけで完成してしまうこともある。また、長い間に、風化して存在が消えてしまうときもあるが、そんなときは、なぜか、ホッとしたりする。たぶん、いつもいつも、ある存在に対面しているのは、緊張をヨギなくされているからだろう。矛盾しているといえば、たしかに矛盾した話である。
 さて、個人のもっている世界が、ただ感覚的なものだけを土台にしていれば、気分の変化で、簡単にかわるかもしれないけれど、見ているかぎりでは、そう単純ではないように思われる。けっこう構築性がつよく、そのつよさやケンロウさを考えると、感性のレベルだけでは片手落ちであり、どうしても理性が働く面を意識しなければならない。
 〈使いたいもの〉は、いわば実作者にとって必要なものであり、世界はそれらが集合した広がりであると同時に、全体を示している。この全体性(トータリティ)をなんらかの方法で外に出さなければならないときに、思考のカタチが生まれてくるといえなくもない。わたしの場合、思考のカタチが、石や自然木など元素にむすびついている場合が多い。
 その理由としては、次のようなことが影響していると思われる。
 わたしは、これまでずいぶん住家をかえてきた。ふしぎなことに住家をかえると、〈使いたいもの〉〈使いたくないもの〉に変動がみられるようである。二年前に、多摩川に近いところに住んでいたが、その頃よく川岸までいったものである。広々とした川辺は、押しつまった思考のたばをときほぐすのに役立ったし、そのうえ、家の周囲では目にはいらないさまざまなものにふれることができた。川石、枝木、岩、波、葦原、魚、鳥、それらのまざりあう空間そのもの、何度いっても新しい側面が必ずある。河川敷の川石の集合はそれこそ無限につながる世界を想起させ、心を平らかにさせる。全体という意識が、川面の流れに沿って広がっていくのを、実感としてたびたび感じられたのもこの頃である。
 石の集合体が全体性を呼びさますのだろうか、だとすると、〈集合性〉がなんらかの全体をつくり、それが個々の世界にまで通じているといえるかもしれない。河川敷の石それぞれが、みなよい石であるとわかっていても、〈使いたい〉石は、ほんの一握りである。これはよく考えるともったいない話だ。ひとつの思考のカタチに用いるのは、ひとつの石であっても、その石のうしろには、無数の石がひかえていて、〈全体〉を構築しているがゆえに、わたしがひとつの石を使っても、石のリアリティは永遠にもちつづけられるということになる。たいがいのものは、このようにして素材となっても、そのもののリアリティをもちつづけるものなのである。
 ところで、もったいない石は、ずっと意識の片側に保留されていて、わたしのなかから思考のカタチがとだえないかぎり、場所を変え、時間をまたいで、生かされる可能性をもっている。このようなものへの対処のしかたが、思考に厚みをつけるとわたしは考えている。

初出: 『菅木志雄著作選集 領域は閉じない』横浜美術館、1990年