表面の厚さ(1995)

 菅 木志雄

 

 〈平面的なもの〉について考えるとき、わたしは、いつも〈映画〉に頭がいってしまう。エイガが始まる前に、イスにこしかけ、前方を見ると、白い巨大なつい立てのようなスクリーンがある。それも黒い稜線でフチどられて、何か得体の知れない空洞のようにさえ感じられる。白いスクリーンを見ている状態を、わたしはキライではない。ときには、自分勝手にそこに自分の考えている映像を投影したり、逆にそのスクリーンをぶち破ってなにかがとびだしてくるのではないかと妄想できるからである。また、スクリーンと同じ状態で、質のちがうもの、たとえばビニールとか布とかベニヤ板とか、水面や地表面のようなものがあったらいったいどうなるだろうかと思ったりする。
 映画館のスクリーンは、二次元世界をとらえるアミのようなもので、はじめからそのように設定された認識や概念の上にある。スクリーンの上に〈画〉が〈映しだされなければ〉、完成しないものである。
 〈画〉自体は、スクリーンにかぎらず、どのようなものの表面にでも映し出すことができるだろう。たとえ、水や油の表面でも大地や砂漠や木や石の上であろうと、表層をもっていて、それが表面として認識されているものであれば、〈画〉は映る。しかし、〈画〉が三次元世界の空間性を所有している以上、さらに三次元立体の上に〈画〉を映すと、ものの凹凸によって、必要以上に〈画〉が歪んで見にくくなる。
 ただウツスというだけなら、歪んでいようとかくれていようとかまわないのだけれど、映画館のスクリーンは、前提として、〈画〉が歪みも、必要のない陰影もないようにしつらえられているといってよい。このことは、表面の認識として見ると、しつらえられた要素以外に、観客は見たり考えたりする必要性を感じられなくされているといえないことはない。
 わたしは、画廊にいって、〈平面的〉作品を見たときに、ときどき同じような感覚をもつことがある。あまりにも二次元性を信用しすぎた(つまり平面──表面と画や像の同一化)作品に出会うと、その懐疑のなさにヘドモドしてしまうのである。元来、二次元平面と〈画〉とは離ればなれにある存在にもかかわらず、二次元平面にほとんどの場合〈画〉が密着しているかに見えるというのは、なにか特別の理由があるのだろうかと考えざるをえない。
 このように、わたしが(表現から)一歩さがって考えるのは、モノ、もちろん平面的なものに対して、その在り方の多様性に多大な興味と探求心があり、アートの仕事をする上で、基準のひとつとも考えているからである。それというのも、どのようなモノも平面的な側面をもっていて、どうしてもその性格をさけてとおれない場合がある。木の立体物の表面をキレイにミガクか、そのままラフにしておくかは、立体の問題であると同時に平面性の問題ともなり、それに対する思考が、結局そのアーティストがつくるものをどのような位相で扱っているかというところまで波及してくる。わたしは、つくるものを単なる対象物とも、タナの上におかれる完結した物体とも考えていず、それらは、存在することの多様化のひとつを担ったモノにすぎないと思っている。平面的なフィールドに関しても、そこにすでにしつらえられ、出来上がってある状態を認め、そこに沿った仕事は、目指すものではない。
 三次元のヒトの住んでいる空間内に、平面性はある。しかし平面的物体は(たとえ、そのようにしか見えないとしても)ないと、わたしは考えている。もし、どうしてもそのような認識を確固としてもちたいのであるのなら、自らそのようなモノをつくらなければならない。そして平面的物体のシステムはそれこそ無数にあり、そのどれを思考するかによって必要な平面性がえられるということである。まずその地点が、平面の仕事にかかわる第一歩にちがいないのである。

 

初出:『「SOH 10周年展 連鎖」図録』1995年、双ギャラリー