空白の周縁(1989)

菅 木志雄

 

 人のまわりにはたくさんのモノが、それぞれに〈位置〉をしめている。〈位置〉をしめているとは、そこにそのモノだけによる特定の場をつくっていることである。だから人がたくさんのモノを自分のまわりに知覚するのは、いうなれば〈特定の場〉を見ていることになる。モノが複合した状況が、人のまわりをかたちづくっていると考えると、置きかえとして、〈特定の場〉の集合が人のまわりであるとしてもいいかもしれない。しかし、この見方は人を、〈まわり〉を知覚する中心においた状況設定であり、すべてがこのような設定だけで、現実が成り立っているというのはありえない。たとえば、〈特定の〉というときの特定性はモノそのものの特定性なのか、人の認識概念を裏づけるものなのか判然としない場合がある。表現する者は無意識にモノとモノのあいだに静止し、空間の動かざる点として周囲の全体を知覚する姿勢をとりやすい。とりやすいというのは、ある一面そうしなければ表現意欲が充足しえないからであり、すべてが開放され、すべてがナチュラルな状況においては、表現意欲を具体的なカタチにしていくには想像以上の力をついやさなければならないだろう。
 人にも周囲があり、モノにも、空間にも周囲がある。人にも種々雑多なニンゲンがいるし、モノ・空間にもひとつとして同じものがない。人の周囲だけを対象にして考える理由はどこにもない。またモノ・空間の周囲のみを他より重視する必要もないだろう。人はモノの周囲を外側から見ている。人を見る〈モノの目〉は無数にあるけれど、人の周囲はニンゲンという大枠の概念を基本にすればひとつである。人の場合は内側から支える周囲であり、モノの場合は外側から支える周囲となるだろうか。
 モノが複合し、空間が集合していることを思えば、それぞれの周囲の境界もおのずと見えそうだけれど、そう簡単ではない。内側の(意識の)力、外側の(存在の)力のどちらの力も同等でなければ、〈周囲のカベ〉は立ちあがらない。つまり、構造化しえないのである。ただ、こまったことに構造化しえても、必ずしも目に見えないことだ。

初出:  『「アート・エキサイティング‘89──現在を超えて」展図録』1989年、埼玉県立近代美術館