〈差異〉の永遠(1990)

菅 木志雄

 

 人は本性として、さまざまの性向をもっている。進歩とか安定とか、またつくることも、反対に壊すことも、そう思われる。たくさんのものをつくれば、それだけかわりの存在を破壊しなくてはならないのは、限定された空間内では、ごくあたりまえの出来事だろう。
 だいたいは、かぎられた空間内に、人は生存している。日常の生活の場において、そこに住んでいる人が、仮に五人いれば、その五人のニンゲンに対応して、必要な道具や調度がそなわっている。機能は同じでも、それぞれ好みがちがえば、イロやカタチや性能が同じでないのはごく自然である。好みの度合いが、どれぐらいあるかによってちがいが生じ、そのときの条件や考えによって度合いがちがってくる。他のニンゲンとちがうことを意識するのも、いわば本性を支える柱のひとつにちがいない。
 人はプロの俳優にかぎらず、よく他人のマネをする。マネを遊びの要領でするときには、それが充分にウソでやっていることが第三者にわかるようにする。マネ(模倣)をしながらも、それと同時に、ちがうんだということ、つまり差異も表裏一体として出している。もちろんそうしなければ、第三者はただシラけるばかりだからである。
 アーティストは、ちがい(差異)をプレゼントするプロであると思われる。たとえ日常の場でさえ、そのちがいを示していく精神は、まわりの人とはずいぶん差があるだろう。まして、画廊や美術館などの見せるための空間に自分のものを置くときには、なおさらちがいは視覚的要素を強められて出されることが多い。ちがいを強調していくと、それはただまわりと異質というだけでなしに、ある特定性をかもしだす。
 自分と同じように、アートを志し、実践している人々が身近にいることが、特定性を強化し、保ちつづけていく原動力にもなる場合がある。アーティストにとって、人とちがうことが、他のアーティストと区別される重要な要素になっている。区別されなければ、ほんとうに意識・思考の源泉をくみあげようとするニンゲンにとっては、不満が残るだろう。
 ところで、他の人とちがう特定性というのは、どこかで歯止めがかかっている状態のように思われる。日常の生活の場では、おたがいの暗黙の了解によって、特定性は上下左右している。アーティストの仕事の特定性は、そのものが特殊であって、仮に限界指定があったとしても、はるかに日常におけるそれを超えているにちがいない。作品といわれる具体的なものも、それによって特定されるアーティストも、特殊なニンゲンと見られる。しかしながら、どんなに特定化されたものでも、特殊なニンゲンでも、いずれにしても大多数のまともな状態にあるものや人が動かざる基本としてあるから成り立ちえている。いうなれば、それぞれがおたがいに対象化というロープを結び合って、遠くへ、遠くへいこうとしているにすぎない。
 アーティストは、自分流に勝手に、ロープをのばし、遠くかなたにいく術を知っているニンゲンであるが、最後のところで逡巡してしまう。アーティストのなかにはロープを手ばなしたり、切ってしまうことを知っていながら、そしてまたそうしたほうが、よりその思考性が純化されていくのを察知していても、それができないでいる者のいる──しかし、それをせめることはできない──。 
 たまたま、そのロープを手ばなしたり、意識して断ち切ったりするアーティストがいる。この行為は、いうなればものや人の特定性を自らとってしまうものである。まわりとの関係のゆえに保たれていた特定性は、その輝きを失っていくだろう。特定性を基盤にした、ちがいもおのずとその居所の悪さに、性状を変えようとする。まわりとの対応関係が消滅すると、ちがいは、ただそのものだけの〈異様さ〉をかもしだす存在となる。
 わたしは、アーティストがすべて、自分の握っている〈ロープ〉をはなしたほうがいいといっているのではない。はなせば、たぶん苦しむにちがいないからである。第三者に対して、その〈差異〉をわかってもらいながら、ものを提示できないというのはつらい。だから、それは個々のアーティストの資質や思考や理念、それから置かれた位置、位置のある空間の形状にもよるだろうが、〈ロープ〉を断ち切るという行為によって生じてくる変化する空間は、〈ロープ〉を握っているのと同様に、別のもうひとつの世界だということである。ちがう成り立ち、ちがう構造、存在、ちがう価値や記号性、そのような認識空間が軒を接している。ちがい(差異)ということも、そこではイロ合いがかわっているにちがいない。必要性も不必要性も、そのものの存在律のなかにとけこんでしまう。動かしがたい事実なるものとして、ありつづける。
 ものや人の特定性は、すでにその効力を失い、それにかわる認識として、固有性という窓口ができあがる。誰に対してでもなく、その人のための、そのもののための、総体的な在り方が認められ、否定も肯定もされない存在様式が構築される。固有性はつねにひとつなるものを志向しており、それぞれ個なるものが対等の空間を占有して、固有性がカタクズレしないようにバックアップしている。そうすることによって、固有におけるちがい(差異)も、ある世界を浮きあがらせる本性としての役割をつきることなく、もちつづけていく。

初出: 『「差異の現在展」図録』1990年、双ギャラリー