周縁界行(1992)

菅 木志雄

 

 わたしは、ときどきヘンなことを考えることがある。さして深い意味はないのだけれど、先日、プールにいって泳いでいる最中に、「ナニかをつくることは、〈進化〉の方式に沿っているのだろうか?」というフレーズが、多少酸素の欠乏した頭のなかを横切った。それが、そのままひっかからずに横切ってしまえば、それでよかったのだが、そうでなく、プールから出て、帰るときになっても、まだ〈進化〉ということばが生きていて、それから二、三日たっても、なぜかそのことだけは消えなかった。
 だいたい〈進化〉などということばもその意味内容も、アートとは無関係な認識概念にちがいなく、どうしてそんなことばが、ずっと残っているのか不思議だった。たぶん、残った理由は、そのことばの前にある、〈なにかをつくる〉という前句があったからにちがいないと思われた。
 つくるということも、もちろんのことアートのみに関連している認識でないのはわかっていたにもかかわらず、つくることが、強迫観念のごとくアートにしかむすびつかない人間にとって、路線をはずれてものを考えるのは、なかなかむずかしい。ともかく、つくることが〈進化〉にかかわるかどうか、まだ判然とはしないけれど、少なくとも、つくることが時間をかけて切瑳琢磨していくプロセスもふくんでいるとすると、まんざら〈進化〉に関係がないわけでもないといえそうである。また、つくる行動が無から有への一部を担っていると考えると、ほんの少しぐらいは、〈進化〉の「シ」ぐらいは、むりやり関連づけられないこともないかもしれない(この場合、人間の行動様式が時間と動きにつれて精練していくと想定しての話である)。
 人間や他の動物の行動は、大昔にくらべたらずいぶん〝変化〟してきた事実は、さまざまな資料や文献のたぐいで知られることだけれど、その〝変化〟が〈進化〉であるかどうかという点は、なにやら霧のなかという印象を受けないことはない。まして、人間の行動の一端がはじめからアートの表示行為にむすびついて考えられ、つくる行為が明確化されていなければ、行動の変化が、たとえよりヒトのためになりうる〈進化〉だとしても、アーティストがものをつくる行為には、なんら関係のない事柄にすぎないだろう。
 しかるに、あえてそのことは、一時脇において、わたし自身の仕事にそって勝手に解釈するなら、表示行為が、もしかして〈進化〉と関連があり、かつ、それゆえにアートという名目で次から次へと、想像的存在体をつくりだしていけるという考えも一方では置いておきたい。
 わたしは〝作品〟が行動の〈進化〉とともに進展していくプロセスがはっきりすれば、それはそれでよいと思っている。しかし、どうも単純にそのようにいくようではなく、行為つまりやり方がたしかに目に見えていて、ちがっていても、できたものは、なんら変わりばえしないというのもあるし、逆に〝作品〟の見かけは、どんどん変わっていくのに、行為の本質にはぜんぜん変化がないなどということはよくある。時間が徐々に移るにつれていくなかで、前と後では必ず〝作品〟が(よい方向に)進展していく保障があれば、もう少し表示することの意識も変わってくるのではないかと思われる。
 ふつうに〈進化〉についてみると、ふたつの面が合わさったように想定される。ひとつはカタチや形式や仕組みといった外観(外面性)が問題にされる場合と、もうひとつは、意味や内容、さらに意識とか精神といった内観(内面性)が表沙汰にされる場合とである。行動や行為の〝変化〟は、(それが進化だとすれば)目にする具体物の上に、現われるし、表示意識の深浅は、その存在様式の全体に影響してくる。だから、〈なにかをつくる〉ことなど、ある意味では、朝と晩ではまったくちがうものを表わすというぐらいに、定かでなく、動かざる基盤があるなどと考えるのは、錯覚に等しいことなのである。
 そうはいっても、やはりアートとしての表示行為を断ち切れないのも、〈進化〉とはかかわりなく、さらには意識にのぼらないところに理由がひそんでいるとしても、それほどまちがってはいないだろう。
 〈なにかをつくる〉ことを、とりあえず、〈進化〉とは無関係なものなんだと納得してしまえば、単に行為性(外面性)や思考性(内面性)だけで、表示意欲が満足させられ、かつもてあました余力で、ものがつくれる場合、実際に、〝作品〟とよぶにふさわしい実体物を立ち現わすには、もっとたくさんの要素、たとえば素材などがあり、そんななかで、わたしにとって、現在、より必要なのは、空間そのものへのこれまでにない視点への欲求である。だからといって、空間とそれに付随した事柄へのあらたな解釈と認識は、そんなにかんたんにはいかない。なぜなら、従来、空間やその認識は、ヒトのわけへだてなく、誰にでも等価等質に与えられているとみるべきなので、その先入観を打破するのは、むずかしいと思われるからだ。事物を媒介させて、そのもののカタチを変えることで、空間の置きかえを見せるのは容易にできるけれど、わたしが考えているのは、そういった意味と少しちがうものである。現在すでにある仕組みだけを変えて見せるというふうにはいかない。わたしがなんとなく感じているのは、たとえば、一枚の四角いベニヤの板があるとすると、その四角いカタチと思わせる原因になっている思考性とは、そして具体的な空間性とはなんなのかということである。四角いカタチのベニヤ板がそこにあるから、〈四角い〉のではなく、ましてベニヤ板だから〈四角い〉カタチにリアリティがあるのでもないだろう。
 では、その〈四角い〉という事物への認識が、いったいどういう意識回路のなかで、現実的なものになってくるのか。そのような興味を外自然の領域まで広げてみたいのである。これは現在、目に見えているあらゆる事物についていえることで、それらを知覚させている、いわば表には現われていない空間の仕組みをさぐりだすことにつながるのである。表に現われていない空間性は、おそらく現われている空間の仕組みを支えていると察せられるからであり、〝作品〟にはそのどちらの空間も組みこまれていなければならないと思われる。〈なにかをつくる〉というのは、この表に現われている空間性と、現われていない空間性を明確に切り割けると同時に、素材によって、よりトータルな表示物として出すところにある。いうなれば、モノの構造は、その現わすべきものと現わさずにおくべきものとの軋轢の下に現われてくるといえるだろうし、それはとりもなおさず、個の領域世界を語ることになるにちがいない。
 もちろんのこと、個の不変的な領域を語るのにこれだけではすまず、次のことも加える必要がある。
 ──わたしはいま、海をオモテに見、山をウラにおいて暮らしている。海と陸との境目、いわゆる海岸線は、カイガンとありながら、陸の領域つまり陸の〈周囲〉をも規定するものである。水の領域を認識することは、同時に陸の成り立ちも察知することになる。〈周囲〉がひとつの空間性の一端であるとすると、目的の実体物に近づくために、その〈周囲〉がどうなっているか、見きわめるのは重要と思われる。
 〈周囲〉の空間性の程度がその内側にある実体物の育成をあぶりだす。たしかに空間のなかには、限定されないさまざまなものが、気ままに散在しているのであり、そのなかから、なにかを選んで限定し、単独なものとして特定することができるかは、〈周囲〉の領域幅をどれだけ広く、実体物の側にとり入れられるかによっている。

 

初出:『「菅木志雄展〝空囲支間〟」図録』1992年、双ギャラリー