周囲界合 周囲の間(1990)

菅 木志雄

 

 「周囲は事物にも人にも等分に与えられた空間のシステムである」。等分とは、空間の作用、つまり動き、さらにいえば変化、変動が同じ比重でまわりを攪乱し、その影響をものもヒトもさけられないということである。
 ひとつの例として、自然現象である台風についてみると、良好な気象条件とのちがいは、その影響力の有無をみるまでもなく、はっきりしている。台風下で、雨風はそのあたり一帯を荒寥たる雰囲気に変えてしまい、そこにいるヒトは淋しい気分になり、気がめいった状態になる。ものもまた、どんな強いものでも、雨水がしみこみ、風で組織がゆるんでいく。このものの状態は、ヒトがその行動を制約され、精神が暗くなっていく状態と、同じレベルのことのように思われる。
 外側からおしよせてくる〈周囲の壁〉を、そうかんたんにはとりのぞくことができない例をもうひとつあげるならば、こういうことがある。わたしは、よく映画を見にいく。映画館というところは、知ってのとおり、暗い空間であるが、わたしは映画館に映画を見にいくのにはちがいないが、半分ぐらいは、暗さに対するいいようのない安堵感を感じてしまうということもある。真昼の光りの下では、すべてのものが、ヒトも含めて、たいへんはっきりと正体を現わしており、その存在感をぶつけあって、火花を散らしているのに、暗がりのなかでは、存在はしていても、〈暗さ〉のなかに姿カタチが消えてしまって、存在感同士がぶつかりあうことがない。これは暗がりのなかに、それぞれの位置を失ってしまうことなのだろう。光りの下では、位置の固有性が先行してしまうので定位置をもっていないものは、はみだしてしまいかねない。
 〈暗がり〉のなかでは、定位置というものが確定できない状態なので、必要以上のものが積みかさなって、存在しうる。映画館の内側は、暗い空間であると同時に、へんないい方だが、暗さをもった〈もの〉と考えると、暗さがヒトやものにおよぼす変化の度合いが上ッツラのものでないことが納得できると思われる。〈暗がり〉は、自己のそこにあるという身体性をどんどん解体させながら、一方では、意識の集中をかぎりなくさせるという意味で、やはり特殊で異様な〈周囲〉であることにかわりがない。映画館では、映像を見る目的で、数時間をついやし、外に出てくる。出てくるとは、ヒトの場合には、自分の足で、動いて移動してくるわけだが、単なるモノの場合には、空間の変化に応じるだけで、そのものみずからが動いて、他の空間に入っていくなどということはない。わたしは、はじめに〈周囲〉の変化・変動は、ものにもヒトにも同じように、ふりかかってくるものだといったが、実のところものの〈周囲〉と人の〈周囲〉とは、ちがうということをいっておかなければならない。〈周囲〉におけるモノ、〈周囲〉におけるヒトの位置のちがいといいかえてもよいかもしれないが、ただスタンド・ポイントといったごく狭い意味の地点をさすのではない、ことを注意しておきたいと思う。
 〈周囲〉は必ず、相の変化・変動にともなってくることがある。そのとき、それに対抗することなしに、ただなすがままになる状態が出てくる。なすがままというのは、まさに静的な状況を示しているのであって、能動に対する受動ということだ。先にあげたアラシはまさにそうであるし、ある領域に一夜にして、空間を囲うサクができてしまうことなども、その領域内のものやヒトにとって能動的であるし、かなりの圧迫を、空間のあちこちに与えるのではないかと思う。〈周囲〉の能動性に対して、その内に存在する実体は、なんら対応する動きをみせない。それゆえ、持続する周囲といえないこともない。
 次に逆に、ある領域や空間の内にあるものが、積極的に動きまわることによって、〈周囲〉を獲得していく場合である。ヒトが映画館の暗闇に入っていくのもそうであろうし、また水中にもぐって、魚のごとく泳ぐのも、〈周囲〉というものを積極的にとり込んでいく状況を示している。さらにまた、地盤のゆるみで、樹木が自然に倒れるのも、雪が原野や街並みを埋めつくすのも、モノに即して〈周囲〉の移りかわりが立ち現われてくる様子をあきらかにしているといっていいかもしれない。ナニカが積極性をもてばもつほど、それらをとりかこむ〈周囲〉はなんら変わることなく、ただそこに入り込んでくるものをまっている。〈周囲〉が受動的で、なにかしら作用を受けるほうにあっても、それはそれなりに固有の空間性をもっている。
 ナニカ、つまり運動する本体が、みずからの運動性にあった空間、いうなれば〈周囲〉をえらぶ。もし気に入らなければ、運動の主体は、次から次と場所を移動して、身にあった〈周囲〉をさがし求める。この場合、おそらく〈周囲〉は、飛び石のように存在する。運動の主体にとって、〈周囲〉の認識は、そこにどれだけとどまっていたかで決まり、とどまっている時間の長短によって、〈周囲〉の認識は強くなったり、弱くなったりすると思われる。さらに、そこを運動の主体がえらび、〈周囲〉として認識したとして、ただそれだけで、なんのかわりもなく時間がたっていくわけではない。運動の主体は、存在がよりリアリティを増すために、それまで以上に強力なシステムを構築しようとする。だから、えらばれた〈周囲〉は、一刻も同じ様相をたもちつづけるわけではない。
 もし、運動の主体にとって、うまいぐあいに〈周囲〉が構築されなければ、即座に棄てられるだろう。持続する周囲に対して、持続しない周囲とは、このようにして認識されると思われる。

初出: 『「菅木志雄──まなざしの周辺」展図録』1990年、東高現代美術館