〈周囲〉の先端 (1988)

菅 木志雄

 

 通常まどろんでいる、表現や表示する意識が、あるときイキイキと動きはじめるキッカケには、さまざまな理由があるであろう。ふつうのひとはともかく、アーティストは嫌でもコトあるごとに、表現や表示することを気にして、機会があれば時をうつさずやってみるし、またみせなければならない位置にいる。けれども、まわりに素材があれば、それですぐ表現や表示によるモノが成り立つかというと、どうもそうではないようである。もちろん素材は基本となるべきものだが、素材をあちこちにもちはこんで組み立てるのには、単に意欲だけでは足りず、よりイデアルな考えが必要だ。やっかいなことに、このイデアルなものは、かならずしもモノを表現、表示する世界だけに対応しているわけではないので、アーティストは、ときに表現、表示意識とは無関係にありえている次元についても、そのモノのあり方とかシステムの成り立ち、意味の多様性などについて考えてみなければならない。

 表現や表示することにかかわるモノやシステムや空間は、ひとが日夜、身のまわりで認知しているまわりの全体からくらべると、実に少ない量のように思われる。が、まわりの全体を知りつくしたからといって、最良の表現、表示行為ができる保障はどこにもない。まわりの全体にしても、ひとりのニンゲンにかかわるものとすると、それはたいした空間の量ではないであろう。なぜこういうことばが出てくるかというと、〈まわりの全体〉を認知するひとの能力と容積を考えるからであり、さらにひとはかなり、その生きている場所によって、モノの認知する仕方にかたよりができ、必要なものと必要でないものに対する価値基準が一定しないからである。
 〈全体〉が開かれていながら、その一部だけしか認知できなかったり、逆に、〈一部〉しか知覚されないのに、それを〈全体〉として認知する可能性もないではない。だからといって、このようなひとの人格による差異を一律にしてしまえばいいというのも、安易な気がする。むしろ、知覚することの差をそれぞれに自覚したうえで、〈まわりの全体〉を認知し、それらのものが、他者の認知した〈全体〉とどうちがうか、その差をあきらかにし、見つづけていく必要があるであろう。
 表現や表示することによって出されたものは、どのようなカタチの大小にかかわらず、そのひとの〈全体〉であるはずであって、それは、〈まわりの全体〉が意識の内側を通過するプロセスで一端分解され、さらに再統合されて出された、そのヒトだけのモノである。コンテンポラリー・アートにおいて、出されたモノが理解しがたい側面をつねにもっているのは、再統合のシステムがちがう以上(イデアルなものが、はじめからおわりまで失われることなく、それによって、ものの〈全体〉と〈部分〉との割りふりがあきらかにされ、必要なリアリティを生じさせる)、あたりまえにすぎない──こういういい方はアーティストのゴウマンによるといわれかねないが、これはなにもゴウマンによるものではなく、〈まわりの全体〉の差を直視し、その差の良し悪しをそのまま飾ることなく出しているからであって、そこにひとの感情を手前に都合のいいように操作する内容はふくまれていない──。 

 ひとつのモノやある定まった風景や状況は、ひとりのアーティストにむすびつき、〈全体〉が構築され、雰囲気が満ち、他人がはいり込む余地がまったくなくなることは、おおよそ考えられない。〈そこにある空間〉には、不特定多数のニンゲンが、またニンゲンのみならず、ほかの動物や植物などもかかわりをもっており、そのものに即したカタチで、空間と融和している。それを思うと、ひとのかかわりのみで、空間全体のシステムの性格を決めてしまうのは、早計のような気がする。ふつう見馴れている地形や景色は、そこに散在している「もの」(自然の構築要素や人工の構築物、建物とかモニュメントなど)を基にして、広がりの限定や性格づけをおこなってみると、なにかしら、カタチの認識ができ、ある〈定型性〉が感じられるのも事実である。それはあくまで個人の知覚と認識によるものだが、かりに自分にとって、定型意識が存在している場に他人が入ってきても、その〈定型性〉はたもたれたまま、少しだけ波紋が立つだけで、その他人が自分のまわりの空間から出ていけば、またもとの静けさがえられ、〈定型性〉も以前と同じ状態で持続する。しかし、この〈定型〉の認識と、それを具体化する方法とは、ニンゲン同士のみに通用するシステムであり、もしニンゲンをその中心からヌキにして考えると、はたしてその〈定型性〉が持続していくかどうか疑問である。表現や表示することが、ひとの意識存在を存続せしめる内容をふくんでいるとすると、まわりの空間の定型は、不可欠であり、さらにその〈定型性〉がゆるぎないものであれば、ひとの行動はそのなかで安定した状態をたもてるだろう。

 ところでアートは、空間の〈定型性〉をあえて壊していかなければならない仕事である。つまり、ひとを中心にすえた空間意識、モノへの距離感と位置の測定性を棄てることによって、別の空間性を現出させるものだということである。あえてこういうのも、意識して(理念的に)ナニかを感じられる主体であることをやめられるのは、おそらくヒトだけだからだ。まわりの空間は、つねに〈非定型〉であるという認識をもちつづけること、そのためには、それぞれのモノが同じ比重で、位置をえていることを念頭に入れていなければならない。どのようなモノでも、いつも主であることはありえないし、いつも従であることもありえない。すべてのモノは、全体として、常時空間をバランスよく支えながら、〈空間〉を占めるリアリティとしてそこにあるのである。
 日常の世界で、ひとは、毎日かよう道があったり、一年に一回しかいかない場所もあり、また数年に二、三度という場合もあろう。いくら住居の近くでも、なんとなくさけているところもあるし、遠くても車でサイサイいく地域もないではない。それらモロモロの場所を、地形図上で線によってむすんでみると、ひとつの図形的なものが浮かんでくる。立ち入るエリアへの回数は個人差がある。地形図上のあるカタチはひとの行動範囲であって、いいかえれば、〈まわりの全体〉であり、そこは〈周囲〉といえるところかもしれない。問題は、その地形図上のカタチではなく、むしろ、地形図を埋めつくしている要素が大切であろう。実際に歩いてみても、自転車で通過しただけでも、それは道路の周辺にすぎないけれど、動きにつれて、無数のモノや、符号や空間が見える。それらのいちいちに反応するのは、事実上不可能にちがいないが、気にいった、あるいは好みのモノには、気がひかれるのも当然である。立ちどまったり、様子を観察したりする、そのことは一見ただの観察と思われがちだけれど、対応しているのは、ただ視線の先のモノだけではない。先に述べたように、モノは存在領域、ここでは〈周囲〉と限定しているところの要素のひとつである。だから、ある場所におけるモノのとらえ方、解釈の仕方は、そのモノをふくんでシステム化されている〈周囲〉そのもののとり扱い方や解釈規定に、そのままつながっていくものである。
 ウラをかえせば、ひとの身辺に、ふだん見むきもされないモノ(原素材)がなければ、〈周囲〉という認識は、具体性をおびてこないといえる。モノがなんらかの影響で変わったり、移動したりすれば、それはまわりの空間が変動することであり、〈周囲〉をカタチつくっている枠組みが壊れることを意味している。〈周囲〉がつねに限定的にしか認識されないのは、まさにこのためなのである。

初出: 『「双三周年展記念カタログ 色・形・音をめぐっての三週間」展図録』1989年、双ギャラリー