周囲小論 〈景〉の両端(1994)

菅 木志雄

 

 ものをつくるのは、ひとつの場から次の場への移動のプロセスに似ている。場から場にいくときに必然的になにかが変わっていく。旅行の場合には、時間とか空間、景色の様相であろう。ものをつくる場合は、直接的に時間性や距離感が前面に出てくるよりも、変わっていく事物の変化に焦点がいく。〈事物の変化〉はそれをつくっているニンゲンが、「もういいだろう」と考え、事物への思考を止めるまで、延々とつづくものである。いや、ときには、自然の変化や、第三者の〈変化の欲求〉によって、実作者とは無関係に、変わっていくということさえある。こういう場合、実作者は、その〈変化〉をさえぎることができない。なぜなら、実作者が事物の移動(移行変化)する思考のプロセスを止めた瞬間から、実作者自身も、結局それを〈ながめるだけ〉の第三者の存在になってしまうからである。
 こう考えると、事物の〈移動〉する思考そのものが、素材とよばれるひとつの状態を、特定のニンゲン(この場合実作者)の表現、表示作用によって、別の存在様式に変えてしまうことであるように思われる。しかし、別の存在様式のものだからといって、それが、かならずしも完成された存在であるかどうかということは、またあらためて考えなければならないだろう。ともかく、特定の〈移動〉の方式に沿って、ただの素材は、ただの素材でなくなり、べつのなにかになるのである。わたしが思うには、ただの素材は、感覚世界に対応した存在であり、一寸ただの素材でない、一定の移動をへたものは、思考や精神世界に対置した存在になるのである。といっても素材という認識でいえば、はじめのものから、プロセスを通って、どんなにカタチが変わっていようと、なんらかかわりがない。はじめの素材は、それに〈目をつけた〉ひとりのニンゲンのものであるし、あとの素材は、それをつくったニンゲンはもちろんのこと、それまで、存在に〈目をつけなかった〉不特定多数のニンゲンの意識をゆさぶって、思いをめぐらす〈素〉になるものといえる。
 一本の街路樹に目をとめる者と、そんなものに目をくれないニンゲンとの差は大きい。が、目をとめる、とめないにかかわらず地面に植わり立ち、そのそばを通るニンゲンに(それが実作者だろうと、そうでない人々であろうと)差別なくその実在性をさらけだしている点では、なにものにも(馬やヒツジやニワトリなどにさえ)平等の位置にある。そして、そのことを考えるほうが、目にとめる、とめないということよりももっと重要な気がするのである。一本の街路樹が、誰にとっても、〈素材〉として等距離にある、そのことはとりもなおさず、その街路樹が植わっている土地柄、環境、場所、状況、背景などをここでは総称して〈景色〉とよぶとすれば、その〈景色〉が誰に対しても等距離にあるということである。そのあたりの〈景色〉をながめることが一本の街路樹に集約されることもあるし、その逆の場合もある。だから当然一本の街路樹に対する、〈素材感〉や認識は、もっと多くの街路樹やそれらを含む〈景色〉や空間に対する認識と同様のものにもなる。つまり、ひとつのものから、多数の複合されたあり方への知覚の移りかわり(移動)は、一瞬にして、さらにまた連続的に短時間のうちになされる。
 知覚が移ることは、〈景色〉にそくしていえば、その〈景色〉が移りかわるのを意味しており、ひいては〈景色〉の全体性のなかにひそむ素材性が変わっていく事実を示している。〈景色〉に対して格差、階級性をもちこむのは、それをながめるニンゲンの側にあり、とくにアーティストは、それを意識してやらなければ、ものをつくることなどできないのではないかと思わざるをえないということもまたほんとうのところである。
 ものをつくることが、ある意味で〈景色〉を変える、もっと具体的にいえば、そこで認識される〈景色〉の配置を変えるといえないことはない。〈景色〉を構成する要素を、ひとつひとつつくりかえていく(都市空間などはまさにそのようになされたのだろうが)、あるいはそこにある〈景色〉を容認するカタチで使っていく。つまり実作者がつくったり、もち込んだもの、それから現実の〈景色〉の要素に異質な自然でない操作をしてキワだたせるようなやり方、そういうことによって、なにかしらの認識や意識、論理や理念を変えていくのが、つくるというバクゼンとしたコンストラクトを担っているように思われる。しかるに、そのように〈景色〉として、なにかをつくっていく上でまったく問題がないわけではない。単独の事物なら、カタチと質と量に還元されて、〈景色〉ということさえ、つまり場性とか周囲性とか端性と地沿性とかはほとんど重要ではないだろう。というよりもかえって、そういう概念がジャマになる場合さえある。たとえば、ガラスばりの超高層ビル内に、ギリシア風の肉体彫刻を置いた場合、かえってその背景のリアリティを求めるとおかしなことになってしまう。
 すでにいったように〈景色〉というのは、背景そのものでもあり、わたしがものをつくるというのは、背景そのもののリアリティを白日にさらすやり方であり、もちろんのこと背景をしたがえる主体的存在はあるのだけれど、それが周囲の構築的要素から切り離されることなく、相互に支えあっている状態を現出したいのである。たとえそれが、画廊空間のような切りとられた空間内部であろうと、ものが単独におちいらない志向とやり方をする。どうするかというと、そこに現わすものを〈完結させない〉ことである。〈完結〉させないというと、不完全なものと誤解するかもしれないが、そうではなく、どのような意味においても背景を想起させるということである。背景のリアリティによって、そのものの実体性をあとづけるということだろうか。ニンゲンは、それぞれ精神風土をはなれてものを見たり、とらえたりできないのではないかと思われ、ものをつくるというのは、その精神風土なしに出てこないわけで、そうすると、表現によって現わされるものは、そのものが置かれる現実の場と、精神風土とのせめぎあいの間で、かろうじて成り立っているのではないかと推測される。この場合、現実の景色における風土性がまさるのか、あるいは精神風土の方がまさるのかによって、そこに出てきたもののとらえ方が、ちがってくるにちがいない。わたしは、どちらも等量に保ちたい、保たねばならないと願っているが、ときには片方に比重がかかる場合がある。どちらかといえば、ものをつくることが現実の場をふまえている以上、目に見える〈景色〉がより鮮明になり、よりあらたな〈景色〉をそこに現わしたい欲求にかられないことはない。
 あらたな〈景色〉を現わすにさいして、ひとつの大きな問題は、区画はできるけれども、厳密な意味で境界線がひけないことである。物体に輪郭線があるように、〈景色〉には永遠無限に横にのびる線はあっても、閉じる線はない。閉じないということは、不完結を意味している。つくるということは、ある意味で〈閉じること〉を想定しており、それはひとつの思考の完結性とも同調している。わたしは、見ること、考えること、感じること、つくることなど、閉じる観点から考えたことがない。それゆえ、ものをつくることが〈景色〉そのものであるという考え方も出てきたのであるけれど、注意してもらいたいのは、〈景色〉は時間空間が移動していく、直線の一点というとらえ方は、まちがってはいないけれど、妥当でないということである。〈景色〉の構造には、中心も周囲もないし、中間もなければ、端もないのである。その不明確なゆえに、それを支える構築性が必要になり、リアリティをおびるものとなるのである。そして、それは決して〈閉じない〉ことを前提にしている。

 

初出: 『「菅木志雄展──集景囲端」図録』1994年、双ギャラリー