〈周囲〉考 周辺は重い (1988)

 菅 木志雄

 

 自覚する、しないにかかわらず、ニンゲンは〈そこ〉にいる。〈そこ〉というのは、もちろんのこと場所、位置を示している。〈そこ〉といういい方が通用する状況を考えてみると、それは語るべき対象をながめながら指し示す、第三者的あるいは客観的な立場にいるニンゲンを考えるのが妥当のようである。自分がいて、その近いところに他人がいて、そのニンゲンが、指し示しながら〈そこ〉という場合には、現実に見える空間領域を踏まえていることは、一目瞭然に理解できる。
 第三者が示した現実の〈そこ〉が、ニンゲンのいない空間であれば、〈そこ〉は、他人にとっても、また自分にとっても、周囲になりえるかもしれない。しかし、よく考えてみると、自分のまわりや、他人のまわりの空間を単純に〈周囲〉と規定していいのかどうか、疑問におもわずにいられない。自分にとって、〈周囲〉であっても、第三者にとって〈周囲〉ではないかもしれないし、第三者にとって、〈周囲〉の認識が成り立ったとしても、ジブンにとって〈周囲〉ではないかもしれないのである。
 たとえば次のような場合は、どうだろうか。第三者が〈周囲〉と考え、感じ、かつ見ている空間のなかに、ジブンがいるというような場合、〈そこ〉はジブンにとって、〈周囲〉であるだろうか? わたしはちがうと思わずにいられない。〈そこ〉は第三者にとっては〈周囲〉であっても、ジブンにとっては〈ここ〉であって、まさに存在するモノの位置であり、場所であり、広がりそのものである──この場合、広がりそのものが、モノそのものであるといっていいが──。また反対に、ジブンの〈周囲〉と考え、知覚し、指し示している場所に第三者が存在し、なんらかの行為をおこなっている空間を、ほんとうにジブンの〈周囲〉とする認識が成り立つかどうか疑わしい。
 つまり、〈周囲〉というのは、総体として空間であるが、ニンゲンそれぞれが共有できる空間認識ではないということである。なぜそうなのか、わたしはいまニンゲンに対応したカタチで、〈周囲〉ということをいっている。ところが、これは問題があるように思われる。
 かりに〈周囲〉という認識が、ニンゲンにむすびついたカタチでのみ概念規定されるのであれば、ニンゲンがいない場所、位置、状況、空間は、〈周囲〉の空間という認識があたえられないことになる。これでは、たとえばアーティストの〝作品〟において考えてみても、その矛盾はすぐ理解できるのではないだろうか。〝作品〟は、平面でも立体でも、おおまかにいってモノ(オブジェではない)である。そして、たいがいの場合、それらの〝作品〟なり実作したモノをセッティングするとき、その位置、場所とともに、まわり(周囲)の状況が気になり、ときにはセッティングするのに不適なところさえある。このことはある意味で、〈周囲〉の状況が、〝作品〟と重要な関係をもちえることを暗示していると考えていいだろう。もっとも〝作品〟そのモノとしてリアリティを得、第三者がそのモノから、モノの本性を受けとれる状態を開示するのは、もっぱら〈周囲〉のリアリティによっていると思われる。第三者は、モノの現在性を〈周囲〉の現在性とひとつのこととして、受けとるということだ。ただし、モノのまわりを、そのまま〈周囲〉として規定してしまうことを、もういちど再考する必要があるだろう。
 実作されたモノは、つねに新しいシステムや理念、認識をふまえ、現在から先の空間を志向し、かかわるものであるとすれば、現時点で、〈周囲〉という空間概念が成り立っているとしても、それは現在という地平のみに生きるものであって、〈先〉の空間に存在することをめざした存在の〈周囲〉に、そのままあてはめていいかどうか、考えてみる余地がある。
 〈周囲〉という認識を、ニンゲンのいる空間に沿って見ていこうとするなら、一歩すすめて、立っているポイントはどこなのか、考えなければならない。〈周囲〉の認識が成り立つためには、ニンゲンがどの場所に立っていてもいいというわけではない。立つ位置があるのである。そこは、真ん中であり、知覚される空間の中心でなければならない。かりに限定した空間があるとしても、中心をはずれて位置するとするなら、〈周囲〉という認識をえることができないと同時に、中心性さえもうしなうものである。中心性がうしなわれるということは、空間が距離をもっているという知覚体験を、どこかでうしなわせてしまうことにつながっている。
 なぜなら、限定された空間内において、中心からどの周縁までもその距離は、等距離である(そうでなければ、中心性は成り立たない)という事実によって、空間の認識は成り立っているからである。一地点から、等距離の空間内にある実体は、認識されるとき、かならず等価な空間性をもちえる。ただし、これも距離のみに即応してのことである。
 さて、そこでジブンがある地点に立って、まわりを見わたしている状態を考えてみれば、等距離だけの理由で、見える空間の色合いが同じだとはいえないことがわかるだろう。
 ニンゲンに近いところはよく見えるし、遠くのほうは見えにくい。〈よく見える〉〈見えにくい〉というのは、単に視覚作用のみならず、空間性にかかわる問題であるといってよい。〈よく見える場所〉が中心に近いのであるし、〈見えにくい場所〉、つまり距離が遠いほうが〈周縁〉に近いといえる(概念世界ではこの逆もありえるだろう)。ニンゲンの〈周囲〉という認識は、どちらかといえば、この〈周縁〉に近い位置、空間を指し示しているように思われる。
 厳密な意味では〈周囲〉と〈周縁〉とはちがう。〈周縁〉には、仕切りあるいは相を分けるというニュアンスがあるし、〈周囲〉は、むしろ空間の広がりを意味している。広がりのなかにあるさまざまのモノを包含していることも認めてである──〈周囲〉をある全体性という認識のもとにとらえる根拠がここにある──。
 どういうことかというと、広がりのなかに個々のモノの様態が、それぞれのモノのリアリティを主張しながら、〈全体として〉広がりを認識させる素になっていると考えられるからである。個々のモノはどんな場合でも、空間に孤立してはありえない。一見、孤立して存在しているようでも、ニンゲンやほかの生きものの意識や身体とのかかわりを含め、空間の〈全体性〉によって、はからずもささえられている。空間の〈全体性〉を、〈周囲としての全体性〉といいかえてもよい。それはこう考えることによっている。個々のモノは、それぞれにそのモノが成り立つための空間(広がり)をもっている。それが〈周囲〉なのであるが、知覚される空間全体は、そこに存在しているモノの数だけの〈周囲〉の集積によって、認識されるものである。そして、〈全体〉の空間の性格は、集積された〈周囲〉の性格に負うところが大きいと思われる。
 さらに〈周囲〉の色合いが、モノの性格、存在性、たとえば水とか木などの自然物、また人工的なものとかによって、限定されてくるとすれば、トータルな空間(広がり)の性格は、それなりに限られた内容になるだろう。
 わたしは、いま〈周囲〉そのものを構造化し、目に見える様態にしうるかどうかさぐりをいれている。が、そのまえにやらなければならないのは、これまでのように、〈周囲〉という概念が成り立っていることを前提せずに、まずほんとうに〈周囲〉という認識自体が成り立つかどうか、また成り立たせることができるのかどうか、考える必要がある──〈周囲〉の意味について語るのは、次の機会にしたいと思う──。

初出: 『「菅木志雄」展図録』1988年、双ギャラリー