素材が立ちあがるとき(1994)

菅 木志雄

 

 「理念は、素材(存在様式)によってつくられる」のではないかという思いが、わたしにはある。
 先日、イサム・ノグチ美術館をニューヨークに行ったついでに訪れた。おおかたの作品はこれまで、写真や展示会で見たものばかりだったが、初期の作品のいくつかははじめて見るもので興味深かった。真鍮や木やスレートなどが使われ、石よりも構成的要素が強かった。見ているうちにフッと疑問に思ったのは、あるときからほとんど石に移行しているのはどうしてなんだろうということだった。わたし自身の素材に対する使用方法から考えても、ひとつの種類に固定化するのは、特別の思いがあるように思われる。
 精神領域を〈内側にとじこめる〉という意味においては、石は実に有効なものである。たぶんノグチも精神性を純粋無垢のまま保ちつづけたいと願ったのだろう。ただそれだけなら石を扱う彫刻家とたいしてかわらない。ところがノグチの場合、もうひとつの要素がある。それは石の存立要件を外界との対応のなかで考えていることである。つまり、外界のさまざまな事象をすくいとる器として、または入れ物としていることである。それゆえ、つねに〈やり残した〉ような部分がしつらえられており、外界との流通がスムーズにいっているように見うけられる。だから、ノグチの石の庭は内(精神)の風と外(自然)の風とがぶつかりあってできている。このような平常と異質の共存をはかる石の使い方は、この素材を扱うときのテンケイのひとつではないかと思う。
 精神性の高い世界を表すのは、なにも石にかぎったことではない。どんなものでもというとゴヘイがあるかもしれないが、少なくともどんなものを使っても、同じように高い理念を保ちつづけようとする意識と思考がなければ、思いどおりの〈世界〉が立ち現れてくることはないと思われる。このことは素材をどう考えるかに多く依存している。
 わたし自身、仕事を始めた当初から、意識的に、手あたりしだいといった感じで、身の回りで手に入るものを使ってきた。どんなものでも作品はつくれるといういささかゴーマンに思われる自信もそのような現場をふんできた自負があるからなのかなと思っている。七〇年代は、〈すべて新作、すべて異なる素材で〉という考えでさまざまなものを使っていた。木はもちろんのこと、鉄、亜鉛板、アルミ、プラスティック、アクリル、布、水、土、草、石、ガラス、油、葉、ペイント類、セメント、粘土、金アミ、オガクズ、紙、光や映像といった類まで、種々雑多なものが、わたしの表現意欲のなかに消化され、〈見えない領域〉を見えるものとして、置きかえるのに使われた。逆にいえば、ことばに置きかえられない空間や領域は、なにかしらの事物で表せるということ。素材の絶対的価値観は、そんなところにあるのではないかと思われる。
 日常空間において、目にすることがある神社やお寺の〈ハザマ石〉とか〈結界〉などの石は、〈見えない領域〉をまさに〈見えない〉領域として顕在化したものと考えていいだろう。もちろん、そのような特殊な状況におけるものにかぎらず、河原にうち棄てられた流木の一枝を手にとっただけでも、時間と空間の育生を見られるのである。
 わたしが種々の素材を使うのは、わざわざ計測を基本にした構造体をつくって、そこになにかの意味と存在の理由を見いだすというのではなく、そのひとつひとつのなんでもない事物のなかに、構造もあれば、本質的な存在の理由もあるのだと考えるからである。だから、もの(作品)をつくるということは、今までになかった構造体を、種々の材を使って、そこに現出させるのではなく、すでに見たり、手に触って実感している事物のなかに、それまで考えもしなかった構造性や志向性、事物性を見たり、感じたりすることがまず必要なことで、それによって逆算的に創造思考を呼びさまし、理念や世界観みたいなものを擁立するといったほうがよいかもしれない。
 そしてさらに、そのようにして成立した思考や理念を基にさらにちがう要素や性格づけのできる事物を使っていくというように、思考認識とものとが交互に結び合い、支え合ったかたちで、〈領域〉を広げていく。
 わたしにとって、広がる領域の対応の必要から、休みなく素材を求めつづけなければならないほどになっている。
 イギリスにリチャード・ロングというアーティストがいるが、彼の場合は、自分のほうが移動して、素材になるものに接するやり方をとっていて、わたしが、必要な素材を、道々ひろったり、店に買いにいったりして、自分のつくる場所にもちかえるのとはちがう。どちらが良い悪いというのではなく、ロングのように、移動しながら思考のメカニズムや構築のシステムが、いつも同じ置き並べのくりかえしのなかに成立しうるのは、とても合理的な方法のように思われる。素材の選択はムズカシク、徐々に精練していくのに時間がかかることぐらいである。
 そして、そのような素材の精練のプロセスが、どのような実作者にとっても、たいへん重要な事柄であり、そのやり方のちがいが結局、作品の出来不出来に反映してくると同時に、実作者の思考や認識のレベルまでも第三者に知らしめてしまうものだということを、キチッと自覚していなければならない。
 素材は、事物であったり空間であったり時間であったり、あまり動的でないように思われ、まして〈息づいているもの〉などという認識はあまりに人格的ニュアンスを入れすぎるキライがあると思われるかもしれないけれど、わたしはそれらが、つねづね〈生きている〉ような気がしてならないのである。そうでなければ、〈生きた〉ニンゲンの精神や思想がなんでもないもののなかに投影され、それらが絶対的存在感をかもし出すことがないのではないかと思われるからである。いわば〈素材〉は、観念や思考や精神さえも熟成させるものなのである。

 

初出:『東京国立近代美術館ニュース 現代の眼』第479号、1994年