素材の素 空間の隅 移行と静止(1990)

菅 木志雄

 

 1 素材の素

 サクヒンの材科となっているものを、たいがいの場合〈素材〉とよんでいる。
 〈材料〉でもよいのだが、なぜかそれでは、おさまりがつかない気がする。
 〈素材〉は、ナニかの〝素〟になっているニュアンスをより強くつたえる。
 「味の素」という、じつにその用途を明快に現わしているものがある。味は目に見えないので、よりそのよしあしは感覚の問題になるといってよい(受け手の方が、つねに一定の感覚をもっていると仮定してのことであるが)。
 サクヒンの〈素材〉も、ときには、目に見えない領分の〈素〉になっていると思われる。
 つまり内部とかウラとか、実際あるようだけれど、よくわからないといった部分である。
 具体的な世界とは反対の抽象的な世界も考えられる。

 〈素材〉がどんなサクヒンの〈素〉になったとしても、それはひとつのことである。ところで、ときには側面から〈素材〉をながめるのもよいことである。〈素材〉はサクヒンの〈素〉であるけれど、それでは、〈素材〉の〈素〉はなんなのであろうか。
 たとえば、〈素材〉は、石だとか木だとか金属、布や紙、空気や光、あるいはまた意識や心などもそうである。それらを使ってサクヒンをかたちづくっていく。
 〈素材〉はカタチがないというわけではない。が、人はなかなか〈素材〉にカタチを見ようとしない。カタチを気にしだすのは、アートとして〈素材〉がさまざまに使われだしてからである。

 〈素材〉のカタチが認識されにくいのは、それが人の思考範囲のなかでそれほど切実なものではないからである。まして、〈素材〉の〈素〉は、もっと思考の外にあって、カタチがどうのこうのと論じられることはよほどのことがないかぎりない。

 かりに〈素〉のカタチがあきらかにされ、意味が解かれ、構造が解かれても、それで結着がつくわけではない。なぜなら、〈素〉には、さらに〈素〉になるべきものがあって、この関連は、永遠につづくひとつのことである。

 〈素材〉は、その〈素〉の位置からみれば、すでに完結した存在体である。そしてたいへん具体的なものにちがいない。ときには、それ自体をサクヒンと同列におくこともできるだろう。

 

 2 空間の隅

 ここに大きいテーブルがある。一〇人がゆったりと座れるほどである。
 テーブルがある空間に、テーブル以外になにもないとすると、テーブルの存在は、イヤでも目に入ってくる。
 テーブルは、一定の高さの脚がついているが、平板な物体である。平板でないと使えないからであり、使えないと、テーブルでなくなるからである。
 人はテーブルの縁にそって、座る。大きいテーブルに、ひとりで向かうとき、どこに座ってもいいだろう。自分の好きな位置や方向があるといわれる。ひとりのときには、自由に、自分の座る位置や方向をえらぶことができる。

 端(はじ)の好きな人もいれば、真ん中あたりがいいという人もいる。わたしは端でも真中でも中間でも、どこでもよいのだが、強いて決めるとなると、それはテーブルのまわりの状況がどうなっているかによってくる。
 窓の多い部屋と、カベだけの息苦しい空間とでおのずとちがってくるだろう。

 わたしは、明るいほうに向かって座るのが好きである。自然の光だろうと、人工の光だろうと、わたしは座るとそちらのほうをみる。

 カタチの線というのは、考えようによってはすべて端であると同時に縁(ふち)である。だから、テーブルに沿って座るとは、もっとゲンミツにいえば、テーブルの縁に沿って、ならぶということになる。つねに縁の近くにいて、真ん中でも中間でも端でもない。縁が、いわば中心であるということである。
 人はテーブルの縁の一部にふれながら、実のところテーブル全体に相対しているといっていい。テーブルに座って、なにかの用途に使おうとする場合、たとえば、ノートを広げ、文字を書く動作をしようとするなら、人はすぐにあることに気がつく。ノートのサイズがごくふつうに考えられるものであれば、それほど広いスペースが必要でないのはわかる。しかし、いまここにあるのは大きいテーブルである。B5サイズのノートの何倍もあるものである。どんな大きい身体の人が座って仕事をしても、その全面を使い切ることはできないだろう。
 テーブルのどのあたりでノートを広げようとも、そこはテーブルの一部でしかない。まして、テーブルにのぼって、その中央あたりにノートを広げるなどというのは、まず考えられない。たいがいはテーブルの辺にそって座り、ノートを広げる。はっきりいえば、そこは縁に隣接し、かつ縁を一部として含んだスペースである。

 テーブルに座り、その前にノートを広げた、そのスペースは、いわばテーブルの端(はじ)にすぎない。

  端であるけれど、テーブルのカタチや構造を考えると、端は、そこだけではないのである。カタチの外線に沿ったスペースが端といっていいかもしれない。

  ものの外形の線や面が端と、考えるのはたやすいことである。
 ところで、端はどこに対応した端であるのか、充分に考察してみる必要がある。立体物の場合は、内側と外側という認識のなかで端はうまれるのかもしれない。
 しかし、平面的なものの場合、端は案外かんたんに指し示すことができると思いがちであるが、よく考えると、立体物よりもむずかしいともいえなくない。

 端というのは、隣接したところに異質なものがつながっているものである。端を支えているのは、いわば同質性である。
 端と縁は、一見同類のように見えながら、どうもちがうもののようである。

 テーブルの端は、テーブルの材質の同質性によって保ちえている。

 テーブルの縁は、もののフチであると同時に、テーブルでないまわりの空間のフチでもあるわけである。

 縁とフチとのぶつかりあいの場が、ものの外形をかたちづくる。
 テーブルと人との関係は、いつでもフチを共有している状態にある。ということは、それぞれの存立のために、フチが介在しているということである。

 

 3 移行と静止

 いろいろなものが周囲にあるのに、それほど必要でもないのに、手頃なモノを見つけると、また自分のまわりに運んでしまう。それまで開いた空間だったのに、モノでそこが埋まってしまうのは、ナニか損をしたような気になる。モノがふえたのだから、むしろ益なのだろうが、モノが益になるためには、長い時間がかかると思われる。

 モノはそれ自体で、動くわけではないが、それがなんらかの理由で、たとえば人や動物によって運ばれたり、自然災害や現象で別の場所に移動するようなことになったとしたら、それはなんらかの必然の力がはたらいたとみるべきかもしれない。

  モノが動くのは、外部の力ではなく、内部の力である。

 ーカ所から、次の場所にモノが移行するとき、モノそのものが動くわけでなく、認識が移行するのである。

 モノが動くとは、志向性の問題である。

 モノを動かすとき、そのまわりは、より静止するものである。静止の状態を保ちつづけるには、たえず、動かさなければならない。

 モノが静止する場所、そこが思考の拡大する場であると同時に、ものが縮小するところでもある。

 なにかを構築するというのは、モノが移行することを前提としている。
 移行というのは、実体ばかりでなく、なにもない空間そのものを動かすことができ、かつそこを見える状態にできる。

 動くものが静止する場所は、たいがいの場合、空間のスミである。ただし空間のスミは、移行する結果として生じてくるものである。

 

初出: 『「菅木志雄展」図録』1990年、ヒノ・ギャラリー